ジダーノフ批判というのがあった

昔、ソビエトでジダーノフ批判というのがあった。
スターリンの好みに合わず、またおそらく大多数の大衆の好みには合わなかった斬新な作風の作曲家は批判の対象になった。
ナチスの退廃芸術という烙印もまた、おなじような状況であった。
国の文化予算を使って「でたらめな前衛芸術」などするなというわけである。
今、歴史上の出来事として、「こわいことがあったんだねえ」と平気で多くの人が言うが、実際目の前で、同時代にいたとして、
一般の音楽ファンや大多数の国民は、ジダーノフ批判や退廃芸術抑圧を批判するだけの見識を持っただろうか?
ショスタコーヴィチ交響曲第2番や、ロスラヴェッツの作品やプロコフィエフの「鋼鉄の歩み」などより、ショスタコーヴィチ交響曲第5番や、プロコフィエフの「交響曲第7番」や「石の花」のほうが好きな人が多いのではないか?
シェーンベルクよりオルフやプフィッツナーのほうが健全でわかりやすい音楽だという人が多いのではないか?
今でも、人口比では、「現代音楽」は嫌いという人が多いのだが、だからと言って、現代音楽の作曲家が文化庁の助成を得て発表した音楽が、大衆受けしない音楽だったからといって、謝罪させられたら恐ろしい。


さて、もし、現代音楽がテレビなどマスメディアで大きく露出される機会があったとしよう。
たまたま、国際的な音楽コンクールなどが話題になってテレビ露出され、その作曲部門も、ついでに露出されるなどするとする。
あるいは、文化予算のカットで現音など作曲家団体などの経済的困窮が、たまたまマスメディアのネタになったとする。
そこで、アホなメディアが、「助成金使ってデタラメ前衛音楽」「メロディ皆無、聴衆理解できず、これが日本を代表する作曲??」
「ちんぷんかんぷん現代オペラが必要なの、こんな曲を税金で委嘱??」
などと見出しを付けてテレビのワイドショーなんかで流して、
「ピアノに洗濯バサミ?ネジ、釘突っ込んでも芸術なの?」「偶然性の音楽って?デタラメにしか聞こえない」
「特殊奏法って、楽器への冒涜じゃないの?」「美しい和音も覚えられるメロディもない音楽だ」「冷たい音がして音楽としての愛が感じられない」とか、「小さな時から一生懸命勉強してきた演奏家にこんなわけのわからない音楽を演奏させるのは冒涜」とか、「現代音楽には美しい歌心が感じられない」「音楽ってお客さんを喜ばせたり楽しませたりじゃないの?これ何よ」「こんな音楽こそ未来の音楽だと子供たちが思ったら教育に悪い」「こんな音楽の初演に文化予算使う必要などないのでは」、「こんなわけわからない現代音楽が日本の音楽として海外の音楽祭などで紹介されているのはわからない」「楽器をちゃんとした演奏法で使っていないのは非常識で楽器を作った人に失礼」「普通の人が歌えない覚えられないものだ」など、全然、現代音楽が理解できないコメンテーターが好き勝手にコメントするのを、テレビ放送したとすれば
まあ、国母選手の服装への当初の批判メール・電話の数百通をはるかに超える数の批判メールが、作曲家団体などにくる可能性はありえると思う。
なにぶん世間の「常識」からすれば「調性」や「演奏法」を着崩していますから。
国母選手のファッションを受け入れられる人よりも、「現代音楽」が好きな人ははるかに少数派のように思われる。

理解できる人が少数派のカルチャーでも尊重して、自由に泳がせているような社会が望ましい。