のだめカンタービレ最終章 ヤドヴィの居場所
クラシックの作曲者側から見て、ヤドヴィの居場所が、クラシック音楽での「作曲」の今の状態を象徴しているようで、リアリティがあった。
ヤドヴィは最上階にこもっていて、アパルトマンの住人達は、全然、関わってこなかった。同じ世代で同じ学校にいるヤドヴィの曲を、学生達の誰も弾いたこともちゃんと聴いたこともないし、楽譜も見たことがない。
難しい、暗い、変な、わけのわからないものというイメージで見られている。
クラシック音楽では、作曲家というのは、ベートーヴェンやラヴェルやショパンというような存在で、とても遠い高いところに置かれている。
でも、現役の、クラシックの現代音楽の作曲家というのは敬遠されて存在感が薄い。 現代音楽はクラシック音楽界の屋根裏部屋か・・・
でも、作曲の人達は、音楽を楽しんで、新しいことをいろいろやっている。
面白い楽器を作ったり即興で子供達と音楽を一緒に作ったりする作曲家もいる。
一方、クラシックの演奏家は、昔の名曲で名演をしようと厳しい求道生活。
目の前に一緒にいる現代の作曲家と一緒に音楽を作ろうとする人は一握りしかいない。
日本の音大時代は作曲科の学生は全然でてこない。パリにきてはじめて、作曲科の学生がでてくる。このあたりの状況もリアリティがある。
のだめと千秋が、ヤドヴィの書いた「ピアノ協奏曲」を初演して成功をおさめたら、これは、クラシック音楽の歴史に新しい名曲を加えることになるが、
大半の演奏家は、過去の大作曲家の名曲を繰り返し演奏してさらなる名演を目指すも、果てしない繰り返しの中で、過去の大演奏家、世界的な演奏家と自分の演奏を比べて、「自分の音楽をつくる」野心を消耗していってしまう。
ベートーヴェンやショパンやモーツアルトは自分の曲を演奏していて、新作を周りの人は期待して聴いていた。ベートーヴェンの交響曲の新作が話題になったし、週末の礼拝に行けばバッハの新しい曲が聴けた。
そういう時代を羨むヤドヴィの台詞は、すごく現実的。
追記:
誰々の曲を誰々のように弾けたら・・・という音楽の目指し方に、クラシック音楽の演奏を目指している人の大半が陥っている。
自分の音楽そのものに真摯に向き合うということは、
ベートーヴェンやショパンやシューベルトやシューマンが自分の音楽を作って、人に自分の音楽を伝えようとしたような向き合い方。
楽譜には、そうした音楽家が伝えようとしたことが沢山書きこまれている。
世界中で名声のある音楽家も、ローカルで地味に活動する音楽家も、それぞれ自分の音楽をやっていて、音楽は単純に勝った負けたではない。
「あの人より上手く」で競争するものではない。
ただ、人に聴いてもらい感動してもらうような音楽を作れる音楽家になるということは、なかなかに大変である。
音楽そのものはコンクールや名声競争ではないけれども、聴いてもらえる活動の場を得るためには、そうした競争に参加せざるを得ないという現実。
そういった状況が、よく描かれていると思った。