惑星聴き比べ

コリン・デイヴィスベルリン・フィルの録音を聴いてみました。これは、エルガーなどに近いノーブルなイギリス音楽の情感に寄せた演奏ではなく、とてもモダニストで大胆な20世紀の作曲家としてのホルストの音楽の構造を鮮明に強調して組み立てて聞かせようとしている演奏です。
木星」は細かい音形をズラしながら組み立てていく独特のズレの効果の上に目立つ太い旋律線を置くという書法だけども、この細かい組み立てを、伴奏音形として大人しく整理してしまわずに、ちゃんと各パートのフレーズの入り、アタックがズレて騒然となる効果を、きっちり聞かせているように思います。中間部もエルガー的な情感は避けてちょっと粗野なくらいの民謡、楽隊的な歌わせ方もしているのも、ホルスト民族音楽研究系のバルトークに近い作曲家だということを踏まえた解釈に思いました。「火星」も、衝突しあいながら呼応する意図的なバラバラ状態を強調している面白い演奏で、ホルストの縦を揃えない復調やポリリズムの斬新さをスムーズに整理してしまわないで聴かせる面白い演奏だと思います。ホルストの「火星」のアイデアは、重々しい19世紀の後期ロマン派の戦争の行進曲ではなくて、アフリカのアルジェリア民族音楽のはじけるような、ざらついたリズムなのだということを踏まえた正統的な解釈だと思いました。


マーク指揮のRAIの録音もYouTubeにありました。「火星」は非常に遅い演奏ですのでオーケストラ奏者にとってはかなり技術的に楽になるかと思います。ホルストコリン・デイヴィスのこれ以上速くしたらオケが崩壊しかねない切迫したリズムと急速な5拍子とアクセント移動の危険な不安定感やアフリカのパーカッションのような弾力性ではなく、古代ローマの重々しい歴史物の戦士の行進のように解釈して演出しているようです。また、「木星」は、ソフトにゆっくりと歌い始めてからゆったり盛り上げてプッチーニレスピーギのように歌わせています。細かいリズムがズレながら衝突しあうようなモダンでストラヴィンスキー的なパートは背景の装飾的な分散和音音形として滑らかに聞こえるように抑えて、ハーモニーの中の動きにして、初期のシマノフスキのような装飾的なオーケストレーションと解釈しているように思われます。「土星」では、楽譜では、わざわざ小節の途中に特別に点線を引いてちょうどペトルーシュカのように突然別の音楽にコラージュ的に切り替わりリズム面に断裂をつくるようにしてあるのだけれども、ここをちょっとリタルダンドかけて19世紀的にうまくつながるように辻褄を合わせています。そのあと、小節線と周期の異なる音形がミニマルのライヒみたいにモアレになって重なるところは、そういう現代音楽っぽいメカニカルな感じが目立たないように、弦楽器の大きな動きを前面に出して歌わせ、背景として聞こえるように抑えていますね。

これはマークが悪いというわけではなくて、例えばシェーンベルクやベルクなどの新ヴィーン楽派を甘美にロマン的に聞かせるカラヤンの演奏と、複雑で先進的な楽譜の仕掛けをくっきりと意識させようとするブーレーズの違いのようなものですね。そういう新旧が混ざり合った1910年代というところが「惑星」が書かれた時代だと思います。第一次対戦中の作品の「惑星」はトゥーランドットよりも前、プッチーニがジャンニ・スキッキとか書いていた頃の作曲年代で、レスピーギの「ローマの噴水」と同じ頃の作品で、1924年の「ローマの松」よりも以前の曲。「惑星」作曲時点で、ホルストより斬新なスタイルで作曲していたのはストラヴィンスキードビュッシーシェーンベルク、アイヴス、バルトークくらいですね。

音というのは、同じ音を聞いても、同じには聴こえない。人間の耳は、音響という空気の振動そのまま刺激として受けて気持ち良かったり、不快だったりするという単純なものではなくて、音楽の中のある音と音を関係付けて聴いたり、ある音を前面の音、ある音を背後の音として聴いたりもするし、音階や和音などを記号として受け止めるし、知らないジャンルの音楽は、知らない外国語のようにペラペラとしか聴こえずどれも一緒に聞こえるのに、自分の詳しい音楽は、ちょっとしたディテイルまで区別できる。音楽を聴いて一本のわかりやすいメロディだけを追尾する単焦点の聞き方の人もいれば、バッハのフーガのたくさんの声部を同時進行で全部聴いているような多焦点の耳の人もいる。
ある様式の音楽を何度も聞くと耳が訓練されて、そこから聞き取る音の情報自体が変わる。だから、自分の好みとか人間性は変わらないのに、ある時、それまでわからなかった曲がわかるようになったりするし、以前好きだった曲が単純すぎて物足りないとなったりもする。

音楽を作る 多様な声を聴く

牛島安希子さんの音楽を見て聞いた

。演奏する姿も音も洗練されて美しい。同時に、これを聞いていると、音楽を創るということが一般の音楽教育などでピアノなどで既存のクラシック音楽の楽譜を正確になぞるという技術教育、指の身体運動トレーニングのお稽古、まずは「真似ること」から入る音楽の勉強になってしまうことを打破してくれるヒントがあると思う。絵画の時間だったらどんな小さな子供でも自分の絵を描く「お絵描き」から入る。ところが、大多数のクラシック音楽家の教育と現場を見ていると。自分のオリジナル、今そのときの同時代の自己表現を伝えるということが意識されていない。ものすごく長い修練と競争を経て許された超エリートである一握りの歴史上の大作曲家、それこそベートーヴェンチャイコフスキーバルトークといった人たちしか、ピアノやヴァイオリンやオーケストラという絵の具で自分の絵を描いて人に見せることが許されていないという奇妙な独占がある。そもそも、楽器やアンサンブルを自分たちのオリジナルな音楽の表現メディアとして考える発想が欠如している。
作曲は、それぞれの時代、それぞれの場所、それぞれの文化の中での価値観や美意識の表明であって、そういう表現活動がないまま、過去の「偉大な成果の鑑賞」だけが存在するのはおかしい。
それこそ、音楽をはじめたばかりの子供が、美術の時間に子供たちが思い思いに自分のお絵描きをするように、楽譜をなぞるのではなく自分の音を鳴らしてお互いに聴きあうという時間があっていいのではないか?
美術だったら、それこそ町のカルチャー教室の中高年の習い始めでも自分の絵を描き、小学生が描いた絵も地域の電車の車内に展示したりもするし、写真が好きな人も、主婦やサラリーマンの作家が町のギャラリーで個展をひらいたり、二科展や県展入賞をめざして、私の絵を見てと美術館やギャラリーを使って作品を発表している。
クラシック音楽の世界では、全てのプログラムが過去の偉大な作曲家の音楽の演奏と鑑賞に割かれているのは当然で、それを演奏家も聴衆も奇妙だと思っていない。自分たちのオリジナルな発言をしないことは当然だとされている。
その発想であるから、私が、オーケストラが同時代や地元の作曲家の曲を発表する場に使われないのはおかしい、例えば学生オケが学生の自作の曲をやってみたりということが出てこないのはおかしいと発言すると、歴史を経て残った名曲が演奏されるのは当然で、自分たちの作品発表にオーケストラを使わせろと要求するのは傲慢で、世界で選ばれた一握りの作曲家以外にその機会はないのは当然だ、観客も演奏家もそんな個別のローカルな同時代の創作の手伝いなど関係ないので。それを要求するのは作曲する人間の自己中心の傲慢な発想だと言われる、そんなこと言っていたら「おれは不当に不遇だ」と不満をぶちまける高慢でややこしい人物と思われるから謙虚に静かにしてクラシック音楽演奏家の気分を害さないようにすべきとのアドバイスもいただくことになる。
こうしたクラシック音楽の社会だから、メトロポリタン歌劇場で女性作曲家が自分のオペラをメイン演目として発表機会を得るまで、100年以上かかるというガラスの天井があり、黒人作曲家の作品を一度も演奏したことのない演奏家が大多数で、地元の作曲家にどんな人がいるかも知らないオーケストラ定期会員で溢れることになる。
アメリカのメジャーオーケストラで黒人作曲家が作品発表の機会を得たのはウイリアム・グラント・スティルが最初だ。人種差別が激しい100年前、オケのクラシック音楽プレイヤーには、神聖な楽聖の音楽を演奏する場であるオーケストラ演奏会で黒人の音楽を演奏するなんて嫌だと抵抗した人もいるかもしれない。そうして、打ち破った結果、今では世界中に女性作曲家も欧米以外の作曲家も黒人作曲家も普通にたくさんいる。歴史上にはナチ時代など政治的に圧殺された作曲家もいる。しかし、そういうたくさんの多様な声を聞くことをクラシック音楽はあまりに軽視し怠っていると思う。
日本のクラシック音楽の黎明期、滝廉太郎は「作曲」でライプチヒに行ったし、山田耕筰も貴志公一もヨーロッパにのりこんで自作を発表しようと奮闘した。100年前に東洋人の曲を欧米のオーケストラに演奏曲目にいれさせようという目標を当然のことと思っていた。
ベートーヴェンショパンを弾くことは立派な自己表現の音楽なのだからそれで十分という意見もある。たしかに、それは自分にとってのベートーヴェンショパンシューベルトと向き合った音楽なのでそうではある。しかし、ベートーヴェンショパンシューベルトが曲を作り、その友人たちが自分たちの文化を伝えるものとして活動し、その曲を演奏した時には無数の当時の他の作曲家もそのように活動していたのだ。その無数の活動の中のごく一握りが何100年も忘れがたいものとして残されている。
世界中にも近所にも様々な声があるのだ。
こうしたものを尊重して視野にいれたいという発想と、演奏会曲目は超有名定番名曲を有名ブランド演奏家で聴ければそれでよしとする価値観は異なる。
もちろん、無数の現代の作曲にも演奏家には素晴らしい人もいればそうでない人もいて、その中で優れた一握りの人しか大きな発表の場を得られない競争があるのは当然だが、たとえば美術館でいえば、どこに行ってもダビンチやセザンヌゴッホしか展示していなくて、たまに東山魁夷若冲が観れるくらいで、兵庫県で住んでいる人が、金山平三も具体も小磯良平小出楢重あたりさえ観たことがなく、ピカソ以降の近現代の世界の美術の傑作を知らず、美術館に県内作家の展示もないというレベルくらいに相当する。

聴いている音楽のメモ

東北や北海道などの追分系音楽
https://youtu.be/diXsrCXU4ug

モートン・フェルドマンのミニマルな音楽
https://youtu.be/ro_WzMgP9Ck

ホルストの後期の様式
https://youtu.be/HLdZVTVrdcU

若干、こうした地方の能楽などの影響もあるかもしれません。
https://youtu.be/BtNRFNAYjqA

アメリカのネイティブの音楽
https://youtu.be/19nm5_nAwQg

アイルランドの音楽
https://youtu.be/6ftHXYJZt5s?list=PL7A4C7651B1C4A113

クラシック音楽における多様性について

なぜ、私がクラシック音楽のレパートリーが狭い範囲の限られた名曲に限られていることを厳しく批判するかというと、そこに文化の多様性、価値観の多様性、美意識の多様性、感情の多様性の不足が生まれるからだ。例えば、モーツァルトブラームスなどばかり弾いていたピアニストに、ブラジルやインドネシアの曲が弾けるだろうか?これは単にテクニックの問題というより、感情の解釈の想像力の問題といった方が良いかもしれない。そこでレパートリーから欠落するということは、そういう多様性に出会う機会が失われ、大切な文化が気づかれないまま埋没するということなのだ。

すべての宗教者へ

神の名を騙った暴力行為は、神への最大の侮辱行為である。
自分の考えを、神の意志だと詐称することは、神の他に勝手に自分の神を作る行為である。これは本物の神の他に、勝手に自分で神を作って思うように語らせるという行為であるから神への最大の背信行為である。これを、キリスト教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒神道もやってきた。 全て神に反する行為である。