音楽を作る 多様な声を聴く

牛島安希子さんの音楽を見て聞いた

。演奏する姿も音も洗練されて美しい。同時に、これを聞いていると、音楽を創るということが一般の音楽教育などでピアノなどで既存のクラシック音楽の楽譜を正確になぞるという技術教育、指の身体運動トレーニングのお稽古、まずは「真似ること」から入る音楽の勉強になってしまうことを打破してくれるヒントがあると思う。絵画の時間だったらどんな小さな子供でも自分の絵を描く「お絵描き」から入る。ところが、大多数のクラシック音楽家の教育と現場を見ていると。自分のオリジナル、今そのときの同時代の自己表現を伝えるということが意識されていない。ものすごく長い修練と競争を経て許された超エリートである一握りの歴史上の大作曲家、それこそベートーヴェンチャイコフスキーバルトークといった人たちしか、ピアノやヴァイオリンやオーケストラという絵の具で自分の絵を描いて人に見せることが許されていないという奇妙な独占がある。そもそも、楽器やアンサンブルを自分たちのオリジナルな音楽の表現メディアとして考える発想が欠如している。
作曲は、それぞれの時代、それぞれの場所、それぞれの文化の中での価値観や美意識の表明であって、そういう表現活動がないまま、過去の「偉大な成果の鑑賞」だけが存在するのはおかしい。
それこそ、音楽をはじめたばかりの子供が、美術の時間に子供たちが思い思いに自分のお絵描きをするように、楽譜をなぞるのではなく自分の音を鳴らしてお互いに聴きあうという時間があっていいのではないか?
美術だったら、それこそ町のカルチャー教室の中高年の習い始めでも自分の絵を描き、小学生が描いた絵も地域の電車の車内に展示したりもするし、写真が好きな人も、主婦やサラリーマンの作家が町のギャラリーで個展をひらいたり、二科展や県展入賞をめざして、私の絵を見てと美術館やギャラリーを使って作品を発表している。
クラシック音楽の世界では、全てのプログラムが過去の偉大な作曲家の音楽の演奏と鑑賞に割かれているのは当然で、それを演奏家も聴衆も奇妙だと思っていない。自分たちのオリジナルな発言をしないことは当然だとされている。
その発想であるから、私が、オーケストラが同時代や地元の作曲家の曲を発表する場に使われないのはおかしい、例えば学生オケが学生の自作の曲をやってみたりということが出てこないのはおかしいと発言すると、歴史を経て残った名曲が演奏されるのは当然で、自分たちの作品発表にオーケストラを使わせろと要求するのは傲慢で、世界で選ばれた一握りの作曲家以外にその機会はないのは当然だ、観客も演奏家もそんな個別のローカルな同時代の創作の手伝いなど関係ないので。それを要求するのは作曲する人間の自己中心の傲慢な発想だと言われる、そんなこと言っていたら「おれは不当に不遇だ」と不満をぶちまける高慢でややこしい人物と思われるから謙虚に静かにしてクラシック音楽演奏家の気分を害さないようにすべきとのアドバイスもいただくことになる。
こうしたクラシック音楽の社会だから、メトロポリタン歌劇場で女性作曲家が自分のオペラをメイン演目として発表機会を得るまで、100年以上かかるというガラスの天井があり、黒人作曲家の作品を一度も演奏したことのない演奏家が大多数で、地元の作曲家にどんな人がいるかも知らないオーケストラ定期会員で溢れることになる。
アメリカのメジャーオーケストラで黒人作曲家が作品発表の機会を得たのはウイリアム・グラント・スティルが最初だ。人種差別が激しい100年前、オケのクラシック音楽プレイヤーには、神聖な楽聖の音楽を演奏する場であるオーケストラ演奏会で黒人の音楽を演奏するなんて嫌だと抵抗した人もいるかもしれない。そうして、打ち破った結果、今では世界中に女性作曲家も欧米以外の作曲家も黒人作曲家も普通にたくさんいる。歴史上にはナチ時代など政治的に圧殺された作曲家もいる。しかし、そういうたくさんの多様な声を聞くことをクラシック音楽はあまりに軽視し怠っていると思う。
日本のクラシック音楽の黎明期、滝廉太郎は「作曲」でライプチヒに行ったし、山田耕筰も貴志公一もヨーロッパにのりこんで自作を発表しようと奮闘した。100年前に東洋人の曲を欧米のオーケストラに演奏曲目にいれさせようという目標を当然のことと思っていた。
ベートーヴェンショパンを弾くことは立派な自己表現の音楽なのだからそれで十分という意見もある。たしかに、それは自分にとってのベートーヴェンショパンシューベルトと向き合った音楽なのでそうではある。しかし、ベートーヴェンショパンシューベルトが曲を作り、その友人たちが自分たちの文化を伝えるものとして活動し、その曲を演奏した時には無数の当時の他の作曲家もそのように活動していたのだ。その無数の活動の中のごく一握りが何100年も忘れがたいものとして残されている。
世界中にも近所にも様々な声があるのだ。
こうしたものを尊重して視野にいれたいという発想と、演奏会曲目は超有名定番名曲を有名ブランド演奏家で聴ければそれでよしとする価値観は異なる。
もちろん、無数の現代の作曲にも演奏家には素晴らしい人もいればそうでない人もいて、その中で優れた一握りの人しか大きな発表の場を得られない競争があるのは当然だが、たとえば美術館でいえば、どこに行ってもダビンチやセザンヌゴッホしか展示していなくて、たまに東山魁夷若冲が観れるくらいで、兵庫県で住んでいる人が、金山平三も具体も小磯良平小出楢重あたりさえ観たことがなく、ピカソ以降の近現代の世界の美術の傑作を知らず、美術館に県内作家の展示もないというレベルくらいに相当する。