国母選手バッシングに思う

国母選手の着こなしは、とくに悪くない。 謝る必要はない。
レゲエを聴きながら善悪を考える。
スポーツにはそれぞれ文化の背景とライフスタイルがある。
また、個人にもライフスタイルがある。


国母選手には自分の言葉で自分のファッションを擁護して偏狭な人達から自分のスタイルを守る主張が出来るよう言葉の力を磨いて欲しい。
あの記者会見は悲惨だ。
悪いと思っていないことを、強制的に謝らせられることほど屈辱的なことはない。


謝らせた人達は、「悪いと認めて謝ったほうが楽だぞ」とささやく検察官を連想させる。


彼のファッションが好きではない、理解できないという人が多いとしても、
少数派のファッションを、多数派の趣味と一致しないからといって、排除する理由はない。
そもそもドレスコードの決められた式典や服装ルールのある競技中というわけでもない。


貴族などが中心に始まった競技団体の歴史をひくオリンピックの中でも冬期五輪は、とくに、スキーなど裕福な欧米諸国の白人が行ってきたウインタースポーツが中心で、たとえば格の高いゴルフ場がイギリス貴族のドレスコードを引き継いで「シャツはズボンの中に入れるよう」厳しくプレーヤーに求め、クラブハウスには上着を着て来ることを求めているように、「白人上流社会的な品位」ある服装を求める競技団体が多い。
サーフィンやスケードボードの文化とコミュニティに近いところから出ているスノーボードは、スキーやスケートなどとはカルチャー、ファッションがもともと違った。
国母選手の髪型などは、アフロ・アメリカンやカリビアン・アメリカン由来のファッションへの興味もうかがわせられる。
ボード文化にはヒップホップの影響もあるともいう。
たとえば国母選手のドレッドヘアも含めて嫌悪して感情的にバッシングしている人達がいるとすれば、このファッションへの蔑視感情・嫌悪・差別感情が露呈している可能性が感じられる。


オリンピック競技になって、スノーボードはカルチャーから切り離されて、競技技術だけが磨かれるようになって「普通」の選手が多くなったが、国母選手の髪型やファッションには、それを良しとしない頑固さが感じられる。これは悪いことであろうか?

しかしながら
くりかえすが、

国母選手には自分の言葉で自分のファッションを擁護して偏狭な人達から自分のスタイルを守る主張が出来るよう言葉の力を磨いて欲しい。
主張があるのなら記者会見、言葉のやりとりは正面から勝負しなければならない。
自分にファッションとその主張について、はっきりとその価値観と美意識を言葉で伝えられなければならない。
自国の競技団体と自分の意見が食い違うなら、それを日本語と外国語で発信して対決できるくらいの知性があれば渋いが、あれでは、
主張なくだらしない格好だと言われっぱなしである。

このコミュニケーション能力では駄目だ。
何故、ネクタイを緩めてはいけないのか?何故、あの服装が良くないのか、相手の批判を封じ込める強力な議論力をもった人が、主張あるファッションをするなら渋いのだが残念なことである。

彼が賢明で語れる人物であれば「ヒップホップやレゲエのファッションへの蔑視を感じる」と牽制し、レゲエの人達もしているドレッドヘアやヒップホップのファッションの由来を説明しつつ自分の服装アレンジを説明する手もあっただろう。
ドレッドヘアも、カリビアンの文化や、カリビアン・アメリカンへのシンパシーを表明するファッションであると説明することもできたかもしれない。
競技団体の定めるルールの解釈をめぐっても議論できただろう。
(腰パンまで自分の言葉で語れたら大したものだったのだが、彼のファッション主張にどうもそこまでの中身があるようには見えないが・・・)
自分の言葉で彼が語れなかったということは、所詮、だなしない格好の薄っぺらい格好つけに過ぎなかったということになる。
しかも、国際社会ではある特定のコミュニティや社会的立場を表明する記号になる服装や髪形などを、その意味も知らずに軽薄に真似しているに過ぎないということになる。


国際的な選手として活躍するのであれば、自分のしている服装の意味も知っているべきだし、語ることで自分の味方を増やすテクニックも、処世術も身につけるべきだ。


冬期五輪は、貴族主導の先進国のとくに裕福な白人のスポーツ文化として独占されてきた。
世界の祭典といいながら、南の国々の参加がなく、また、北の国の出場選手も黒人の選手は非常に少ない。
南北問題をかかえている。
だから、ジャマイカの選手がボブスレーに参加する話が映画にまであり、
アメリカでもヒップホップやレゲエを支持するようなコミュニティのファッション、サーフィンやスケードボードのファッションの影響があるスノーボードが、この冬季五輪に加わることは、「南」の文化がささやかながら冬季五輪に入り込む良い機会なのだ。


自分の言葉で語れない、議論のできない貧弱なコミュニケーション能力しかない国母選手は情けない。
競技団体から教え込まれた視野の狭い優等生的発言しかできない選手たちも情けない。
ファッションの背景にある多文化理解も、異種な文化への寛容もなく、服装の統一自体の意味を問うことも知らず、思想・信条の自由の大切な一部分である他者の服装に干渉する人達が情けない。


「服装の乱れ」は善か悪かという誘導尋問にひっかかっている人達が多い。
そもそも何を正しい服装とするかが人によって異なる。
国母選手の着崩しがとくに意味のない軽薄なものであったとしても、それを気にして批判すること自体が意味がない。


競技として服装ルールを定めるなら、それは明確に競技ルールとして定められ、あらかじめ参加者に説明され明文化されるべきだ。

礼節を重んじ規律を遵守と規定があっても、規律自体の解釈、何を持って礼節とするか解釈は様々ある。
TPOの解釈も、個人やコミュニティによって大きく異なる。


この件への反応を見ると、事なかれ主義の競技団体のエライサン以外では、非常に若い世代に、国母選手のファッションに対して不快感を表明する不寛容が目立つ。
逆に、私から上の世代は意外にも、「別にいいじゃない」という反応の方も多い。
1960年代、1970年代の学生達が、どんな格好をしていたか。
ヒッピー文化などもあった。
組織や権力への無条件な従順を良しとしない反骨精神と疑問力もあった。
世界中に様々な文化、人種、コミュニティがあることを意識していて、差別を受けてきたコミュニティの存在への認識もあった。
欧米的価値が相対化されるような多文化主義的な考え方も意識されていた。
就職難の中、旅することもなく、反抗も知らず、人事部長の心証の良い無難な服装を携帯で相談しあう狭い世界に閉じこもっているのではないか?

無責任で軽薄な非難の中に、ボブ・マーリーやレゲエまで侮蔑するような差別的な表現が多く見受けられた。
また、同じスタイルで従順に単一に組織された集団ほど美しいと思いこんでいる偏狭な価値観が多く見受けられた。

かぶき者を見過ごす余裕もない社会になってきたのか。

彼は大人のプロ選手だ。
あの格好でファンが増えるか、ファンを失うか、自己責任だ。
競技団体などの「受け」が悪くなっても自業自得だろう。
あの格好が格好良いと思う人達だけに絞ったイメージづくりも一つのやりかたであろう。
周りが組織の権力でとやかく言うことではない。


「日本のイメージ」に悪いという人がいるが、「日本」は、彼のような人もいる雑多で猥雑でもあるのが現実の日本で、全員びしっと揃ったマスゲームがお得意な国家ではもはやないのだ。
後者のような国が美しいと思う感性の人にとっては彼は我慢ならない人物だろう。



今、この瞬間、ともあれ、オリンピッ期間中は、「反省」したことにして、出場するのが正しい処世だっただろう。
それであれば、もう少し上手に「反省」の演技をすべきだった。
そのあとで、どこへ出ても恥ずかしくない堂々とした人物になってから自分のファッションへの侮辱に対し、堂々と反撃を加えてほしい。
自分のファッションに自信があるなら「反省をする必要がない」と主張する時を見計らって動くべきだ。


あの服装を「だらしがない」と排斥した不特定の無責任な人達の感情的な数百のクレーム電話やメールに対して、過敏に反応して騒ぎを大きくした競技団体や危機管理の杜撰さもメディアの軽薄さもひどいものだ。
あの服装に多数、抗議メールが来たといっても、あの服装をテレビで見た人数のうち、ほんのごく一部にすぎない。
数百や千通程度だとすれば、あの服装が不快だと騒ぐごく限られた人達の反応にすぎないと冷静に対処すべきだったのではないか。


もしもの話だが、個性的で特別なカルチャーを表現したファッションをあえて貫いたある選手が「このファッションは、アフロ系、カリブ系ファッッションやヒップホップなどマイノリティカルチャーへの自分なりのレスペクトの表現であり、服装への侮辱には差別意識が感じられる」とかいうように、筋の通ったファッション主張を、即座に語るほどの人物であったなら、競技団体と日本人の「人種差別」意識をあぶりだすシチュエーションとして、冬季五輪の「南北問題」まで話が広がる興味深い状況を生み出せただろうに。
あるいは、服装へ批判自体が差別意識、排他的な意識の現れだとの反撃の言葉が効果的なセリフであった場合、メディアや世間が一斉に、競技団体バッシングに走ったかもしれない(・・・マスメディアはしばしば、その程度のレベルの反応をするものだ)。

しかし、現実にはそうではなかった。あの薄っぺらな言葉しか発さないのでは、単にチャラい子供が、意味も知らずにイキがったファッションをして叱られただけという、くだらない騒ぎでしかない。
「反省」させられた屈辱をバネに、自分のファッションの意味を深めてほしい。
彼の競技者としての立場と、発言の注目度からすれば、大人げない未熟さを晒すだけなのは大変もったいないことだ。

CNNはこう報じている。

Upon arrival for the Vancouver Winter Olympics, the Japan Ski Association promptly banned 21 year-old snowboarder Kazuhiro Kokubo for not properly wearing his suit-and-tie Olympic outfit to the proper specifications. Coming off the plane, Kokubo had loosened his tie, untucked his shirt and lowered his pants, which to be perfectly honest, was a better match for his signature dreadlocks than the standard look.

At a later press conference, Kokubo made the traditional admittance of personal failing by announcing, Hansei shiteimasu -- "I am thinking over my mistake." He later went on the defensive, however, stating that he was only focused on his own performance. Little matters like dressing like a luge geek were apparently not in his mind.

Of course, this entire episode should be seen as a generational clash within the Winter Olympics rather than Kokubo's own mistake. The authorities want snowboarders for the Olympic Team, but want those snowboarders to drop the rebel culture that made them great snowboarders in the first place. That is not a winning battle.

Kazuhiro Kokubo has stated that this uniform affair will not get in the way of his performance at the Olympics. And since he thinks that the Olympics are just "another snowboarding event" and "nothing special," he will likely not likely let the Olympics get in the way of his career either.


ちなみに英語圏のコメント欄など眺めると、racistとかwhiteといった言葉も混じり、第二次大戦の日本を思い出すなどというコメントもあり、日本の単なる礼儀、規律論より、愛国主義と個人の自由主義の対立、人種やコミュニティのカルチャーや服装にかかわる差別などもっと深いところで対立しているように見える。