原爆の為の原発を主張する讀賣新聞社説

2011年9月7日付の讀賣新聞社説は「脱原発」を否定する中で、次のように述べている。

日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。

核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている」ことを、讀賣新聞原子力保持を主張する理由として讀賣新聞は、社説で主張している。
原爆の為の原発である。
讀賣新聞は、原発を長年擁護しつづけ「安全である」と主張しつづけ、福島原発事故以降も「原発」の継続を主張しつづけている新聞であり、その考え方の背景に、このような原子力の位置づけがあることを社説で明らかにした。

原発事故は、日本のとくに第一次産業産業を空洞化させる脅威となり、日本に食料品の輸出を停滞させ、工業製品を含め日本のブランド価値を著しく傷つけている。まず、原発は一体、社会にどれだけの損失を与えるものであるかを直視すべきだ。日本の原子力は「JCO事故」「福島原発事故」と、わずか半世紀余りの歴史の中で、重大事故を繰り返してきた。
これまでの世界の原発および関連施設の事故発生実績から算出して、原発を継続するということは、少なくとも数十年の単位で見た場合、必ず事故再発のリスクがあり、日本のどこかが再び被害を被ることを覚悟するということである。

原子力による電力供給依存は、2割ほどと言われているが、実際には、そこまで大きな依存比率を占めるものではないことがあきらかになった。讀賣新聞が社説内で使っている原発をとめた場合の「来夏の電力不足」数字でさえ「全国平均9%」にすぎない。
今夏は、実際の電力不足よりも、むしろ、原発を止めると電力が足りないぞという電力会社発表数字と、計画性のない計画停電や、節電要請に業務を翻弄されたことが問題であった。
この9%の不足の解決は、何か画期的な技術革新や社会の大転換のようなものが必須となるわけではない。
自然エネルギーが1年間で10%に到達しないと原発が止められないわけではない。
単にすでに現状で9割を占める原発以外での発電を1割ほど量的に増強するか、あるいは分散型エネルギー供給や新規発電事業を促進して、既存電力会社の系統電力の供給義務量を減らすか、あるいは電力消費量を減らせる省エネ技術の普及をはかるか、これらのミックスをスピーディーに実施すれば良いだけのことである。

原子力は民間企業でも国家でさえも事故時の賠償・現状復帰能力をもたないリスクをもった発電手段である。
放射性廃棄物処理の目途は無く、事故時の補償、さらに避難地域の代替地用意まで含めた相応の補償能力を確保するための損害保険積立もできていない。
隠されたコストを正当にカウントすると、おそるべき高コスト発電手段であり、日本の電気料金を高くしている要因である。電力の自由化がすすんだ際には、原子力発電は市場で競争力を持たない旧技術である。

すでに原子力発電を不要にする様々なエネルギー供給技術、分散化のビジネススキーム、省エネルギー技術の新産業の技術は基本的に出そろい、あとは、単に市場競争力を得るためのコストダウンだけが課題という段階に入っている。
高コストと言われる自然エネルギーでさえグリッドパリティは目前という。
原子力発電のコストに、原発事故による補償コスト、将来の事故への保険コストを正当に含ませた場合、グリッドパリティはさらに前倒しになる。
これら新産業は、日本の産業復興の要となる部分である。多くの企業が参入して成長し雇用も創出されることが期待される。原発が生み出す雇用よりはるかに良質で安全な職場を数多く生み出すはずである。
現在、これらの新産業への投資や労働力の移動が不十分なのは、政府の政策と讀賣新聞のような旧メディアが、これらに新産業の活動を旧産業である原子力の保護の為に、抑制するのではないかという不安である。
これらの新産業は、原発を止めることによって生まれる需要によって成長する。すなわち、原発を再稼働することは、新産業の成長を止めることである。

また、讀賣新聞の関心の高い、安全保障問題にもふれておく。原子力発電所というものは、軍事的攻撃目標として最も脆弱なものである。電源が奪われても、運転操作がストップしても、施設が破壊されても、重大な事故を自爆的にひきおこす。こうした脆弱な施設が、日本海側の無防備な半島先端に数多く存在するわけである。

讀賣新聞原発継続を主張するということは、原発継続によって起こる原発事故、あるいは放射性廃棄物の処理問題、原発の労働現場で起こる様々な問題に、責任があるということだ。
以下、讀賣新聞の社説全文。


エネルギー政策 展望なき「脱原発」と決別を(9月7日付・読売社説)
 ◆再稼働で電力不足の解消急げ◆

 電力をはじめとしたエネルギーの安定供給は、豊かな国民生活の維持に不可欠である。

 ところが、福島第一原子力発電所の事故に伴い定期検査で停止した原発の運転再開にメドが立たず、電力不足が長期化している。

 野田首相は、電力を「経済の血液」と位置づけ、安全が確認された原発を再稼働する方針を示している。唐突に「脱原発依存」を掲げた菅前首相とは一線を画す、現実的な対応は評価できる。

 首相は将来も原発を活用し続けるかどうか、考えを明らかにしていない。この際、前首相の安易な「脱原発」に決別すべきだ。

 ◆節電だけでは足りない◆

 東京電力東北電力の管内で実施してきた15%の電力制限は、今週中にすべて解除される。

 企業や家庭の節電努力で夏の電力危機をひとまず乗り切ったが、先行きは綱渡りだ。

 全国54基の原発で動いているのは11基だ。再稼働できないと運転中の原発は年末には6基に減る。来春にはゼロになり、震災前の全発電量の3割が失われる。

 そうなれば、電力不足の割合は来年夏に全国平均で9%、原発依存の高い関西電力管内では19%にも達する。今年より厳しい電力制限の実施が不可避だろう。

 原発がなくなっても、節電さえすれば生活や産業に大きな影響はない、と考えるのは間違いだ。

 不足分を火力発電で補うために必要な燃料費は3兆円を超え、料金に転嫁すると家庭で約2割、産業では4割近く値上がりするとの試算もある。震災と超円高に苦しむ産業界には大打撃となろう。

 菅政権が再稼働の条件に導入したストレステスト(耐性検査)を着実に実施し、原発の運転再開を実現することが欠かせない。

 電力各社が行ったテスト結果を評価する原子力安全・保安院と、それを確認する原子力安全委員会の責任は重い。

 運転再開への最大の難関は、地元自治体の理解を得ることだ。原発の安全について国が責任を持ち、首相自ら説得にあたるなど、誠意ある対応が求められる。

 野田首相は就任記者会見で、原発新設を「現実的に困難」とし、寿命がきた原子炉は廃炉にすると述べた。これについて鉢呂経済産業相は、報道各社のインタビューで、将来は基本的に「原発ゼロ」になるとの見通しを示した。

 ◆「新設断念」は早過ぎる◆

 代替電源を確保する展望があるわけではないのに、原発新設の可能性を全否定するかのような見解を示すのは早すぎる。

 首相は脱原発を示唆する一方、新興国などに原発の輸出を続け、原子力技術を蓄積する必要性を強調している。だが、原発の建設をやめた国から、原発を輸入する国があるとは思えない。

 政府は現行の「エネルギー基本計画」を見直し、将来の原発依存度を引き下げる方向だ。首相は、原発が減る分の電力を、太陽光など自然エネルギーと節電でまかなう考えを示している。

 国内自給できる自然エネルギーの拡大は望ましいが、水力を除けば全発電量の1%に過ぎない。現状では発電コストも高い。過大に期待するのは禁物である。

 原子力と火力を含むエネルギーのベストな組み合わせについて、現状を踏まえた論議が重要だ。

 日本が脱原発に向かうとすれば、原子力技術の衰退は避けられない。蓄積した高い技術と原発事故の教訓を、より安全な原子炉の開発などに活用していくことこそ、日本の責務と言えよう。

 ◆原子力技術の衰退防げ◆

 高性能で安全な原発を今後も新設していく、という選択肢を排除すべきではない。

 中国やインドなど新興国原発の大幅な増設を計画している。日本が原発を輸出し、安全操業の技術も供与することは、原発事故のリスク低減に役立つはずだ。

 日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。

 首相は感情的な「脱原発」ムードに流されず、原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析して、エネルギー政策を推進すべきだ。

(2011年9月7日01時19分 読売新聞)