高橋悠治と茂木健一郎

こんなに困り果てている茂木健一郎
http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20051217/
ここまで予定調和のないセッティングの対談も珍しい。

高橋悠治小林秀雄の「モオツァルト」がモーツァルトが音楽を作った現実のプロセスに関わらない文章に過ぎないと指摘しているわけだ。ヨーロッパの音楽への単なる印象と個人的な思い入れの美辞麗句賛辞を書くことが何故か権威をもった「評論」として通用してしまうクラシック音楽評論の舶来賛辞文章消費文化のレベルに攻撃を加えている。
一方、茂木さんは、小林秀雄モーツアルトの音楽をきっかけに個人的な情緒を美辞麗句で飾った文章は、それ自体が文学作品だから作曲に役立たずでも良しとする立場だな。
茂木さんにとっては小林秀雄は特別に圧迫感を感じる権力ではないから、素朴な一人の音楽愛好家である文学者の文章として受け入れられるだろう。
一方、高橋悠治にとっては、小林秀雄は、西洋音楽の天才賛美を繰り返し、現在に生きる音楽家の活動に無関心な「クラシック音楽」の権威ある評論家のシンボル的存在なのだろう。


高橋悠治の突っ込みは、ひらめきがあるが、その議論テクニックは、昔の学生運動時代の教授吊し上げの青臭さがある。
世の中の価値を普遍的に説明しつくすことは誰にも無理だから、その無理を要求する高橋悠治の「なぜなぜ攻撃」は、「おっしゃっている趣旨がわかりません」というクレーマー潰しテクニックと似たレベルの素朴な攻撃テクニック話法でもある。
茂木さんが素朴な美意識の共有と仲間意識的共感を期待する善人であること、基本的に人を信頼する寛容な人であって、論争で相手をうち負かそうという人ではないことが様子からわかる。少々、自分の見つけだした概念を、あちこち当てはめてみて素直に喜ぶ素朴な学者だと思われる。
一方、高橋悠治は、モンポウヤナーチェクのような無条件に人間のささやかな営みも美しさも包容するような音楽に「転向」しきれる良い意味の素朴な音楽家にはなれない人だと見える。


作曲家としては、高橋悠治が音楽への権威としての小林秀雄の無意味さ批判しようとするのはもっともであろう、小林秀雄の亜流の隆盛が、現代の作曲の居場所のない今のクラシック音楽の風土をつくってしまった原因の一部にもなっているとは感じる。
(とはいえ、その美文による観客動員がなければ、クラシック音楽自体が日本でここまで一般的に聴かれ、市場をもった音楽ジャンルにならなかったかもしれないので功績は否定し難い)


しかし、茂木さんの、よく説明できないが音楽を美しいと受け止めたり、美しくないと思ったり、情緒を喚起されたりする個人の心の動きや美的な価値観への尊重は、寛容なものであり、
高橋悠治の、個人の心の(勝手な)判断基準を認めない論理の慎重さは、より個人の自由な振る舞いを封じ込める絶対的知的権威を発生させてしまうものと危惧される。
それにしても「面白い」はあって、「美しい」はないという高橋悠治の理屈はわからない。
誰にとっても「面白い」「美しい」という普遍的基準は無いというのならわかる。
現実には「面白い」の方が、「美しい」よりも通用する有効範囲は狭いように思う。
美しい曲は、わりと何度聴いても美しいと感じられる場合が多く、美しい風景と言われる場所は、旅行会社がツアーを募集して観光名所の景勝地が何百年と続くほど、比較的変動は少ない。(美男美女の基準は結構変動するが)
一方、面白く盛り上がった話しというのは、翌日に同じメンバーで再集合して話ししても面白くない場合が多く「面白さ」はよりシチュエーションに支配される一期一会の消耗しやすいものであることが推測される。


対談に先立ち、サティを素材として、20世紀に開発された機械をいじくっていると偶発的に出てくるような典型的面白さのデフォルメを加えた音楽が鳴らされた。