フラメンコ

第18回 東仲一矩フラメンコ舞踊研究所 生徒発表会
「アンダルシアの夜」 振付・構成:東仲一矩
神戸文化ホール 中ホール

フラメンコを見てきました。
生徒発表会ということで、招待いただいてみてきたのですが、堪能しました。

音楽というものは、体、踊り、動作と深く結びついて生きている。
このことを、時に楽譜主義のクラシック音楽では忘れがちになり、さらには、一昔前の教養主義では、肉体的運動感の強く出た音楽を、心の中の動きや思考を緻密に構成し表現した音楽よりも、低く見る傾向もあった。
(演奏者は忘れないが、楽譜や録音や文献にばかり触れているとこの傾向がでてくる)


さて、フラメンコなど、特定の地域、文化、社会集団に深く結びついた音楽分野を、自分の生涯の音楽表現の場として選ぶということは、どんな感覚なのだろう。
スペインの現地に「本物」のいわば完成された伝統芸能の様式があるという状況で、それに日本人が果てしなく入り込んでいくこと、単なる「他所の民族音楽の模倣」とう芸からさらに先へ進むということは、どのような体験なのだろう?

クラシック音楽でも、日本人にヨーロッパのクラシック音楽は可能か?日本人がヴィーンのワルツの本物を演奏できるのか?という問いは、20世紀には、日本のクラシックの音楽家は、強く意識していた。
しかし、クラシック音楽は、ジャンルとして拡張し、クラシック音楽=ヨーロッパの芸術音楽
とは言えない状況になった。世界の多くの国で、オリジナルなクラシック音楽が作られ、相互に演奏し合うというところまで来た。ヴィーンやベルリンのクラシック演奏家が、もちろんロシアやアメリカの曲も演奏するし、日本やインドネシアやアルゼンチンの作曲家の曲を演奏するということも不思議ではなく、クラシック音楽というものは特定地域に結びついたものではなってきた為、20世紀に気負って語られた「日本人にクラシック音楽は可能か」という問いは意味を失ってきた。


フラメンコは、非常に強烈な個性的様式のローカル性の強い特定の音楽だと思う。
こういういわば他者の音楽に強く深く入り込んでいくことは、演じる人の心や文化にも身体に一種の「移民体験」をもたらすのだろう。


フラメンコをしている人達が、心の持ちようから動作、表情、感情表現のスタイルなど、フラメンコに深く長く入り込んでいくと、やはり、その人そのもの、長年やれば、顔や体つきの特徴まで、アンダルシアの人達に似ていくように思う。
他の民族音楽、たとえば、ペルー音楽をやっている日本人を見ると、普段のふるまいや顔だちから、どことなくペルー人に近い雰囲気になってくる。インド音楽をやっていたりヨガをやっている女性は、だんだんサリーが似合うようになってくる。

どんな表情をし、どんなリズムで動き、どんな姿勢で運動し、どういう感情を歌うかは、長年の間に、その人自体を形作っていくのだ。


ま、日本のクラシック音楽演奏家も、ずいぶん、ヨーロッパの演奏家に似た雰囲気と生活スタイルということなのだが。
とくに、イタリアオペラをやる女性歌手など、普段の服装や食べ物や、顔立ちまで、イタリアのオペラ歌手に近づいているなと思う。