芥川作曲賞選考演奏会

ノミネート作品
法倉雅紀:延喜の祭礼第2番
伊藤聖子:ゴーイング・フォース・バイ・デイ
植田彰:ネバー・スタンド・ビハインド・ミー

法倉雅紀氏の音楽。バスドラムを間を空けて叩きゆっくりとしたテンポでリチュアルな雰囲気を形成するやり方が、ブーレーズのリチュエルやバートウィッスルを連想させる。
雅楽的に各楽器に固有の音の動き方を与えるという手法を近藤譲氏が指摘していたが、これは楽器ごとの機能、運動性や出せる音高の差異が大きい民族的或いは伝統的な楽器では必然的なことである。管楽器から弦楽器まで全てに、木琴、鉄琴の類まで均質に同じ音階、音律、音程関係を出せるよう機能を均質化しているのは西洋楽器の規格化の結果で、雅楽の楽器なら楽器ごとの音の運動の違いは機能からして必然的だ。

雅楽風であるところが、西洋芸術音楽好みの日本志向に思われる。ジョリヴェや松平頼側から伴谷昇ニなどの作品の雅楽オーケストレーションの洗練されたバリエーションであり、ハープやピアノという極めて西洋的な楽器は、典型的な現代音楽風の扱い方をされていて、ヨーロッパ音楽の19世紀的時代性・ローカル性を連想させないよう注意深く扱われている。近世日本の民衆的な音楽、民謡や囃子のような土臭い生活感は避けている。このあたり、いかにも現代音楽コミュニティーの中で育まれ、インテリで上品でクールな現代音楽らしさの境界を超えない行儀の良さを持った伝統音楽への関わり方だ。
現代音楽界では居場所を得やすい褒められやすい趣味ではないかと思う。
ヨーロッパの芸術音楽現代音楽はもともとアッパークラスのものなので、東洋音楽でも、雅楽ガムラン、能など宮廷や武家など支配階級の音楽あるいは宗教音楽を好むようで、日本やアイヌの民謡や囃子、長唄など田圃や山や街中の音楽への関心はエリート現代音楽には弱い傾向がある。
日本音楽への興味の持ち方として、このヨーロッパ現代音楽の好みが日本の現代音楽に逆輸入されているように思う。
伊福部昭早坂文雄間宮芳生より、松平頼則や平義久の方がヨーロッパ現代音楽主流の好みであるだろう。
美しく洗練された完成された作品だが、時代を切り開く方向が見えない。東洋の伝統音楽への関心が、ヨーロッパ芸術音楽が認めやすい行儀の良さにあまりに綺麗におさまっている。作品の美しさ誠実さ、質に不満はないのだが、このような美しい現代音楽作品が、音楽生活の中での同時代音楽のポジションに変化をもたらすということは無いと思う。
日本の美意識を、国際的な優れた「現代音楽」の材料にしようとしているが、では、これが、多くの日本の演奏家や聴衆にとって、自分達の美意識に沿うレパートリーとして歓迎されるような音楽生活へのインパクトがあるかというと、そこまで思い切ったことはしていない。あくまで専門家好みの現代音楽楽壇への目配せと名誉欲が感じられる。
この曲のイメージのストレートさ明快さは、千原英喜氏の諸作品に通じるものがあるが、といって、千原氏の音楽のように、日本の多くの演奏家や聴衆に、日本的美意識と情緒を託せる日常レパートリーを供給するという音楽社会的なポジションを意識した仕事の仕方を示しているわけではない。


伊藤聖子氏は聴衆を楽しませる出し物として音楽作品を企画している態度が今風だが、文楽にヒントを得た奏者による身振りや動作に伴う音と視覚を、どこまで聴衆を満足させるレベルの作品の必須要素として開拓し組み立てるかという点では中途半端だった。文楽や歌舞伎の所作は、芸として磨きぬかれて演出され演じられている。
しかし、この作品での動作は、思いつきや模倣のレベルを越えないし、動作をコンポジションの材料として、多彩に展開し構成するということでは、かってのダルムシュタットなどで様々試みられたものや、福井とも子氏などの作品、柴田南雄氏のシアターピース、川島素晴氏のアクションミュージック、あるいはフラメンコやタップダンスやリバーダンスなど現代音楽の外にあるプロフェッショナルな動作と音を伴う芸に比べ、あまりに遅れてきた中途半端な亜流に思われる。
音は、きれいでまとまりは良いが…、現代フルート奏法をちゃんと駆使していますよという技術を開示する少々ありふれた部分が多かったのではないか。そのような気遣いはせず、作品のアイデア、コンセプトに沿って自分の本当にしたい個性的な部分だけに絞っても良かったのではないか。
構成的には奏者が動いて行く道筋が譜面立てから読めて、始めと終わりがわかりすぎ。といって典礼的な形式の力が強いというわけではない。
楽器の持ち替えは素人手品みたいな瞬間芸で終わる。この作品を繰り返し聴く時には消耗しやすい部分だろう。
弦のオーケストレーションは、あまりに典型的2000年日本の現代音楽時代様式。もっと個性的な音を聴かせて欲しい。コンクール対策的完成度の気配りはやめて、せっかくのお客さんを楽しませるアイデアを、自分の個性を直接的に出してやってしまって欲しい。
この人は、ピッチのある音で個性的な新しい旋律、和音を作るセンスと表現力もあり、聴衆にわかりやすい名曲的見通しの良さを設計する人でもあるはずに思う。音楽を音響として捉えることを強調するために、ピッチのある楽音を横につなげた旋律線、見通しの良い形式感などを、「非現代音楽的」なものとしてタブーとする前衛世代のことなど無視して使いつつ、聴衆を楽しませるパフォーマンス付きの少々通俗的エンタテインメント要素のある斬新なコンチェルトなど、今後、堂々とやっていって欲しいと感じた。


植田彰氏の音楽は、悪漢的キャラクターがエネルギッシュどユニークなのだが、大編成で大音量のオーケストラが、内部で様々に手の込んだ細かい動きをするためにエネルギーのベクトルが分散してブカブカ騒いでいる感じとなり、オーケストラ全体がスリリングでスピード感とエネルギーのベクトルを持って聴衆を暴力的に引っ張って動く切迫したドライブ感にならず、大騒ぎしているが緊迫しない音楽に終わる。クライマックスの設計、音楽を運ぶ演出的な鋭さが弱い。エネルギーが分散して凄みのある音色になっていない。悪漢的なエネルギーの凄みならプロコフィエフに遠く及ばないし、サイレンなどの音の衝撃的で音響全体を揺るがす効果にはヴァレーズのような鮮やかさが無い。各楽器を暴力的なまでに荒々しく鳴りまくらせるシチェドリンのような下品なまでの大胆さも見られない。
分厚いオーケストラの音にマスクされながら、調性的な過去の音楽の引用らしきものが塗り込められていたように聞こえたが、もっと、聴衆を幻惑するような悪さはおおっぴらにやっても良いのではないか。
音の暴力的なまでの強さもマーラーの鉄槌なみにもっと徹底的にやっても良いのではないか。冒頭から暫くしてクセナキスのKeqropsみたいなクライマックスがあるが、そのあと拡散してしまう。悪漢的押しの強さでユニークな個性でいくのなら、いっそ、ジョン・ゾーンやバーナード・ラングみたいなアクの強いインパクトを期待したい。オーケストレーションも2000年日本現代音楽のスタイルの範囲内で、いっそコルトレーンみたいなクラシック音楽以外、あるいは、ヒナステラ後期かアイヴスみたいなハチャメチャな行儀の悪さと無駄のないオーケストレーションを見習ってはどうだろう。
技法的には新しくても、レブエルタスの「ガルシア・ロルカ賛」や、ヴィラ=ロボスの「ショーロス第8番」の方が、はるかに破天荒な感じがするのは何故か?

オーケストラは大編成で錯綜した構造になるほど、個々の奏者の出す音のインパクト、全体への影響は相対的に小さくなる。
坂田明山下洋輔のプレイは、小編成のバンドやソロならインパクトがあるが、大編成のオーケストラの1パートであれば埋没していてはインパクトが失われる。
段数の多い大きなスコアで、各パートが細かい動きで錯綜していて、ぎっしりと書き込まれた音符の多い黒い楽譜というものは、「よく、これだけの沢山の音をコントロールできるなあ」という技術的感嘆や、膨大な音符の楽譜を書く労力への賛辞、楽譜のビジュアルとしての迫力などの点で、譜面審査を伴うコンクールなどでは有利なのかもしれないが、実際に演奏された時のインパクトに必ずしも比例するものではない。
演劇的手腕、演出力、聴衆心理の計算というような技術が、音楽に強い吸引力をもたらすのには必要で、この曲には、速度の変化による緊迫や、音のダイナミックスの変化による迫力を駆使して聴衆を翻弄する悪漢的な牽引力が乏しい。
野村誠氏の本の「ガチョーン効果」のことを思い出す。

それにしても、ホースは余分なおとなしい使い方。20年ほど昔、ホースをズラリとバルコニーに配置して多数の奏者に振り回させる空間音楽をやっているある九州の作曲家がいた(広島交響楽団で聴いた)。音楽として何度も聴きたいような曲ではなかったが効果としては面白いものだった。
このホースが、この作品に国際的な大きな場で演奏するには恥ずかしい青臭さをもたらすブチ壊しとなっている。打楽器の使い方が、珍しい玩具の披露になっていて、打楽器アンサンブルになっていない。
どうせ使うなら、芸術音楽的あらたまった雰囲気をぶちこわそうというワルというところまで、悪漢的にやっても良いと思う。
中川俊郎氏のはるか昔の作品の「違和感」に比べいかにも大人しい。
植田氏にはもっと、審査員世代を越えた悪童をやって欲しい。
そうでないと、松平先生に「私の若い頃より大人しいなあ」と思われるよ。



演奏後に、近藤譲原田敬子松平頼暁の3氏による選考。
それぞれの作品へのコメントは、同感するところ非常に多い。
松平頼暁氏が、最初に、今年は不満というところに、同意する。
昨年の山根氏、小出氏の音楽は、音楽家としても活動の在り方、新しい音楽の中で自分はどういうポジションを取るのかという点でも、音自体の新鮮さも、今後への期待を感じさせ、聴いていて楽しかったが、今回の3作品は、いずれも、作曲技量的には高度でありながら、私にとっては、今ひとつ、面白くなかったのが正直なところであった。
今回の選考は、消去法で決まったようだ。
近藤譲松平頼暁の2氏は、法倉氏の作品を推し、原田氏は植田氏を推した。
作品の成熟度、音楽としての美しさでは法倉氏の音楽が選ばれるのは妥当かもしれないが、
今後、影響力をもつということは、あまり期待しずらい作曲家だと思う。


選考には直接影響することではないが、選考委員の音楽観があらためて明らかになる場面があった。

近藤譲氏の、音楽を作曲家の意図しているプログラムや文化的記号から切り離して聴く絶対音楽主義の背景には、遠くハンスリックの音楽美学が透けて見える。
19世紀後半から20世紀の極端な楽譜主義の遺物なのか?楽譜の不完全さをもっと意識した方が良いと思う。
例えば1:2:1の音価で譜面上は同じリズムが、モーツアルトの曲に出てくるのと、ブラジル音楽に出てくるのでは意味が違うし、楽譜に書ききれないニュアンスで演奏も異なる。あるいは、ジェフスキの「不屈の民」変奏曲を聴く時、 「不屈の民」の原曲の社会的意味を意識して聴くか、全く無視して聴くかでは非常に違う。
現代音楽で一時期、脈絡なくスチールドラムの使用が流行ったが、この楽器を単に面白い音響として使う作曲家もいるし、石油産業で労働をさせられ、まともな楽器を所有する自由や経済力も奪われた中で太鼓の文化を守る為、黒人達がドラム缶の廃物利用をしたという歴史を意識して使う作曲家もいる。
音楽の背景を伝えるプログラムノートは、果たして簡単に無視すると言い切れるものなのだろうかと思う。
近藤譲氏の音楽の希薄さ、独特の退屈さは、その音楽観から来ているように思う。

松平頼暁氏の、音楽の濃厚な感情表現を嫌う、反ロマン的?な音楽観。
いかにも19世紀の反動としての20世紀音楽的な態度。即物主義というものは、かなり古いもののように思う。
すでに21世紀だ。
今や、ブーレーズヤナーチェクを振る時代だ。ヴィラ=ロボスのあのポルタメントの感情を爆発させて歌うチェロを、松平氏はどう思っているのだろう。