グリゼー他室内楽 サントリーホール小ホール

ミカエル・レヴィナス:呼び声
ユーグ・デュフール:水を司る星
ジェラール・グリゼー:ヴォルテクス・テムポルム

指揮:ピエール=アンドレ・ヴァラド
演奏:アンサンブル・ノマド

スペクトル系の音楽を聴くと、私はシチューのような音楽という感想を抱く。
非常に煮込まれて、個々の材料がわからないようにしている。
どんな食材と香辛料が使われているのか判別がつかないほど高度にブレンドされている。
どうやってこの不思議な出所不明の味が作りだされているのか、シェフ本人以外には、解明されない謎になっていることが、とりわけ有り難がられる。
味噌汁にヨーグルトやトマトが入っていて美味しいことは、普通人の舌をもってして分析不可能かと思うが、味覚の構成要素を分析して、いかなる素材を混ぜれば良いのか逆に計算したようなものであろうか。


妙なる音のブレンドを作り出して、この音色は、いったいどんな音の組み合わせ、オーケストレーションで出来るのか簡単にはわからない謎にして「音色の魔術師」であることを目標とする作曲上の趣味は、ラヴェル以降のフランス音楽に顕著な嗜好であろう。


スペクトル系の優れた作曲家が、複雑な音のブレンドを分析、構築してみせるのは、うちの妻が、レストランで出てきた料理の味を、帰宅後、再現してみせる技を思い出させる。


この音のシチューの中に、たまに古めかしい形のはっきりした音の身振りがシンプルに出てくると、中からごぼっとニンジンでも出てきたような気になる。


最初に演奏されたレヴィナスは面白い曲とは思うが、スネア・ドラムの響線に共振させる効果は、「2列目の音楽」とか知的でお洒落な言い回しをしていても、まあ、素朴に効果を面白がっているというレベルに思う。
共振する音をどう扱うかという完成度、洗練度で、邦楽の「さわり」だとか多々ある民族楽器などの芸には遠く及ばない。演奏者自身が、この共振する「2列目の音」を、自分の音としてコントロールしていないで、いかにもアバウトに雑音が付加される。
昔、中学生の頃、実家の古いピアノで、どこかのネジが緩んでいるのか、いくつかの特定の音を演奏するとビリビリと鳴ったり、親がピアノの上に置いたガラスケースの特定の面がビリビリ共振したりする現象があり、面白がって遊んだことがあるが、まあ、フランス人インテリらしく格好良い説明は付けているが、基本的には同じようなものに思う。


デュフールは最初こそ知的にカモフラージュされているが中間部から意外に古めかしいシェーンベルク的なリズムと音程(結局、シェーンベルク的旋律だ)の好みが表立ってくる。その古めかしい100年前の現代音楽的な音の身振りに、体を反応させて乗っている人達を客席に散見し苦笑する。ヴィブラフォンを組み合わせる音色の好みはシェーンベルク管弦楽の変奏曲をも連想させる(シェーンベルクチェレスタとグロッケンを使っているが)。三善晃のピアノ協奏曲も思い出した(三善のこの協奏曲はシェーンベルクの「管弦楽の為の5つ小品」に似すぎの箇所がある)。後半はシェーンベルクの5つの小品の音色旋律の遷移する音色変化の発想を肥大させたような音楽。


グリゼーの4分音を含むピアノの和音はヴィシュネグラツキーの4分音ピアノの曲を連想させる。4分音を含む和音の連ね方が妙にアカデミックな演習っぽさがあるのは、グリゼーの生い立ちを示しているのか。
波の運動への関心のあり方には、ドビュッシー、ラベル以来の一つの様式の成熟期の最終形と一つの音楽史上の流れの終焉寸前の姿を見る思い。海を見ての、波の運動や煌めき、自然現象への都会からの訪問者的な風景画的な興味の持ち方に、ドビュッシー以来のパリの作曲家らしい聴き方、音楽的興味の持ち方、自然への関係の特徴を感じる。
海を見て波を見ているが、海で働く人間、漁民などへの意識、海で生活する人間と海との関係、生きていく場所としての自然との切実な生活感を持った見方は欠落している。ブリテンの「ピーター・クライムズ」やヴォーン=ウィリアムスの「海へ騎り行く者達」やヒナステラやレブエルタスやヴィラ=ロボスの音楽との決定的な違い。この生活感の無さがドビュッシーからグリゼーに至るフランス音楽の流れの弱点だと思う。自然の中で生きていく生々しさの不足。それは上品で知的で個人的な音風景の範囲にまとまりがちだ。
ドビュッシーの場合は、濃密な心象風景の情緒的表現が、自然の形態を思い起こさせる音色の空間の移り変わの中に、多分に19世紀音楽的な要素で強く残っているが)
ドビュッシーも畑仕事をしたらもっと良い音楽を書けたのにとアイヴスが言ったのだったっけ。(出典不明)


この、波など自然現象の中での運動や音響のテクスチャーへの関心の持ち方は土井智恵子や斉木由美、望月京などまで引き継がれている。
グリゼー等の音楽はドビュッシーから始まった一つの様式の成熟した後期の姿だと思う。


個々の音をそのまま個別の声として歌わせることより、音を素材にテクスチャーを作り上げることへの関心が特徴だ。様式の成熟期に至りテクスチャーの差異を生み出す為に内部の密度を下げて複雑な割り切れないポリリズムにするか、ゴシック音楽以来のポリフォニーの数理的な足し算掛け算の操作や速度か分割密度の違いで多層化するか、ある程度旋律的な運動を持ち込んでヘテロフォニー的にするかなど差異化の為の様々な方策は発達してきた。しかし、複雑なポリフォニーポリリズム、多層化とともに、個々の要素も多彩であっても、個々の要素に生と文化の生々しさがないのでポリカルチャーな複雑さには至らない。
ドビュッシーの音楽自体は、モーダルな旋律や、異国趣味的な連想をさせるものなど、素材の多様な由来が半ば残っているので、ポリカルチャーな面が強いが、その後の作曲家には、そうした音に伴う生々しい文化は忌避する人が多い。


ミヨーの最も急進的だった時期のスタイルの後継者がいなかったのが残念だ。


今、若手作曲家諸氏がグリゼー、ラッヘンマンなどの世代の成熟しきった「現代音楽」様式に理想の目標として憧れ、倣ってその延長上に音楽を作り続けるとすれば、ちょうど、1820年代あたりにハイドンで成熟したウィーン古典派様式の最終期に、クロンマーやダンツィやライヒャが続けた仕事や、ベートーベンの後の、フェルディナンド・リースやツェルニー、クラーマーの活動のようなものだろう。