ネクスト・マッシュルーム・プロモーション 「ジェラール・ペソン」

ネクスト・マッシュルーム・プロモーション
「ジェラール・ペソンの音世界」
2008年1月12日 大阪 ザ・フェニックスホール
第1部13時〜講演「ペソンの美学」 ニコラ・モンドン
第2部15時40分〜 ペソン作品展1
第3部18時30分〜 ペソン作品展2

第1部のニコラ・モンドン氏の講演。
 Nebenstückを例に、まずは、ペソンのフィルトラージュについての紹介がなされた。
ブラームスの「バラード 作品10」を下敷きに、あたかも、ブラームス当時の音が、時間を経て現在に届く過程で、ある音は失われたり、ぼやけたり、曖昧になったり、摩耗したりというようにフィルターをかけるという話しから始まった。
ブラームスの音が、現代に届く過程で欠落したり曖昧になったりという時間のフィルターがかかるという話しを聞き、一体、このフィルターの性質は、どのような妥当性・根拠を持っているのだろうかと疑問を感じた。
ブラームスは記譜された西洋音楽であり、作られてから現代まで、音楽作品自体が、曖昧に音が失われていくような伝承のプロセスは辿っていない。ペソンが、何らかの特性を持った時間のフィルターを作品で設定するとすれば、一体、そのフィルターの性質は、どんな根拠と意味をもっているのだろうか。
例えば、楽譜を持たない音楽、民謡などが、口承伝承される間に、次第に原型が失われ変化してバリエーションが生まれていくプロセスを、擬似的な音楽的なシチュエーションとして設定するなどといったように、フィルターの性質に何か根拠・意図があるのだろうか?
(例えば野村誠氏のある作品などは、音楽が人から人へ曖昧に伝承・伝搬していくプロセスが積極的に音楽を豊かにするプロセスとして巧妙に設定されているが・・・)

講演はしばらく、この疑問に答えないまま、例をあげながら続いた。過去の音楽遺産にフィルターがかかり、次第に欠落していき、つかみ掴みどころのない、ぼやけた曖昧さから沈黙に至る、次第に凍り付いていき死んでいくようなプロセス、音楽の要素が次第に欠けていき、また、音とジェスチャーが分離されるなどして、音楽が骨だけとなっていくというように、ペソンの音楽のフィルトラージュについて、素材の発展・展開を望まない「先細り」の引き算の悲観的な作曲プロセスとして解説されたように私は感じられた。
「フィルトラージュ」とは、きわめて20世紀的な「デフォルメ」に依存したタイプの西洋インテリ的の音楽なのかと、いささか期待感をそぐ言葉である。さらに、欠落、曖昧さ、掴みどころのなさへ至ると聞くと、日本を含め多くの現代音楽作曲家に「曖昧さ」への趣味が流行っている先達かと思わされる。次第に音楽が凍り付いて死んでいき、ペソン自身、作曲自体が先細りとなって沈黙に至ってしまうと語っていると解説されると、「先細り」で、過去の音楽遺産からの引き算のフィルターの作曲プロセスをもった悲観的な作曲家について、有望な若手作曲家諸氏が熱心に勉強しているというような奇妙な印象をもたされてしまう。また、音楽を骨だけにしてしまうところで、管楽器を吹かずにキーを叩く音だけを響かせるカタカタという音を使うというという話しなどは、骸骨カタカタと、いささか安直な描写音楽の作り方を連想させられて苦笑させられる。

講演の後半で、フィルターの性質について、やっと話しが及んだ。どのようにフィルターがかけられるのか、プロセスがあからさまになることは、ペソンは嫌うらしい。
しかし、ブラームスの音が伝承でどのような変形プロセスを発生するかというような社会的な伝達プロセスでのフィルターを客観的にシミュレーションするような実験的なものではなく、ペソンという個人の中での過去の複数の記憶の引用、変形、欠落、強調という意外にも、あっさりと個人的なフィルターのようである。ロマン派の「追憶のソナタ」の中の「若い頃に接した音楽の記憶の引用」みたいだ。ペソンの個人的フィルターが、どのような感覚や関心によって作られているのかについては、プルーストロラン・バルトなど残念ながら私の疎いフランスの文学的教養の世界の名前があげられてドロリンパされてしまった。さすが、フランスのインテリ作曲家である。

さて、実際に示されていた具体例、譜例の、音楽を骨格だけにしていくプロセスは、伝統的な西洋音楽の変奏プロセスの極めて端正で良識的な継承的美しさを感じさせられた。プロジェクターに示された例の、音楽を骨だけにしていくプロセスは、非常に伝統的な思考と感覚のものではないかと思う。
ある音楽の全体から、皮と肉を取り除き骨格となる音だけを残し、この骨格に別の皮と肉を被せるのが一般的に変奏の基本原理かと思う。主題がよほど単純なものでない限り、変奏というものは装飾が加わったり、和声が付けられたりという足し算だけでは普通ない。
主題はあるリズムと和声や装飾などをもって提示されるが、主題は、変奏作曲の舞台裏では、一旦、旋律線(音高のつながりとしての)、パス進行、リズム型、楽器編成(音色)など、幾通りもの方向から骨だけに分解されて、別の肉と皮が被せられて変奏となる。
ペソンの変奏は、この骨=構造だけにしていく引き算のプロセスを、じっくり取り出して聴かせているように思われる。

 ペソンの音楽では、変奏の際、演奏のジェスチャと発音が分離されてしまったりするが、これも、旋律とリズムを持った主題が、変奏によっては楽音ではない打楽器のリズムだけになったりもするように、演奏時の身体的なリズムが残存して、さらにダイナミックスがPPPの下に音量ゼロという段階が設定されているとも考えられる。

ピアノのギロ奏法など特殊奏法もペソンの音楽では駆使される。従来の楽器から別の楽器のような音をつくり出す特殊奏法は、現在、各地の現代音楽作曲講習会などで関心事になることも多く、音楽作品の新しさをアピールする技法として重宝されているように見受けられ、実際、非常に効果的である。
しかし、特殊奏法自体は音楽の概念を大きく揺るがすほどのものではなく、楽器用法の拡張でしかないとも考えられる。ピアニストによるピアノのギロ奏法を使う代わりに、ここで打楽器奏者が加わって本物のギロや、あるいは珍しい民族楽器などを叩いたりした場合と本質的に何が違うのか?弦楽器の胴体を叩くことと、弦楽器奏者が持ち替えで何か木製の似たような打楽器を叩く場合では、何か決定的なコンセプトの違いはあるだろうか?
コンセプトが大きくは変わらないとすれば、特殊奏法は新たな音色を身近な楽器で得たいという実践的な方法だというシンプルな結論になる。
昨年、たまたま、北インドの音楽舞踊団を見たが、伝統楽器の奏者の多彩な奏法、時に大道芸的なパフォーマンスにまで及ぶ多彩な技は圧倒的であった、
あるいは邦楽では、三味線などの雑音を、イマジネーションの中で描写的ないわば擬音のように聴かせてしまうような技がある。西洋クラシック音楽では美しい楽音が追求されて、楽器の雑音を引き出す表現が避けられてきたわけだが、特殊奏法は、あるいは、このようなクラシック音楽外の文化を意識したものなのだろうか?フラメンコでのカスタネットの奏法の多彩さなど、クラシックの奏者に求めるのは難しい。ペソンが、特殊奏法をどのような意味で使っているのかは今回の講演では触れられなかった。

 第2部、第3部ではペソンのいくつもの作品を優れた演奏で聴くことが出来た。
講演での過去の音楽に目を向けた悲観的なインテリ作曲家像と、実際の音楽作品の生き生きとした表情は、ずいぶんと異なる。
 ペソンが音楽から音を減らしていき欠けさせていくプロセスを、オリジナルの音楽の要素が失われ、欠落していく悲観的な作曲方法として、ニコラ・モンドン氏は、いささか形容し過ぎたようだ。
 音楽のアンサンブルに於いて、音が最もインパクトを持って目立つのは、音の「入り」である。例えば、フーガであれば、声部がテーマで加わってくる「入り」の部分である。
ポリフォニックな音楽で、各声部が、休みなくうねうねと動いているとレーガーのある種の作品のように鈍重でコントラストに欠けた印象を与えてしまう。しかし、適当に声部の休みをつくり、目立つ「入り」を作っておけば、ショスタコヴィッチやヒンデミットが作るようにきびきびとした声部の「入り」が目立ち、演奏効果も引き立つ。音楽を生き生きさせる上で、休符は、非常に効果的なのだ。
 ペソンは、特殊奏法のいわば「鳴りそこないの曖昧なかすれた音」と、くっきりとした明確な通常奏法の楽音が鳴る瞬間を、予想のつかない状況で並べていく。いわば、効果的で目立つ予想のつかない「入り」を無数に作り出しているようだ。
ドヴォルザークが有名な「新世界」の「家路」でやっている、歌う旋律を、不意に中断し欠落させることで、注意を引きつけ強い印象を与えているのと同類のテクニックである。
しかし、いくつかの特殊奏法が延々と順番をかえながら連なってくると、特殊奏法の予想がつかない驚きの効果は失われていき、複数の珍しい民族打楽器など用意して色々な順番で延々と叩いているような「堂々巡り」に陥ってくる危険もある。
 
第2部で演奏されたLe Gel,par jeuや第3部で演奏されたBranle du PoitouやCinq chansonsなど、ヨーロッパの古い音楽や民族音楽を連想させるような周期的なリズム型を持った音楽で、特殊奏法がふんだんに使われると、あたかも、馴染みのない古楽器か民族楽器などで編成された民俗楽器アンサンブルを聴いているようだ。
身振りだけで音を出さない部分などが混ざり、奏者と指揮者と譜面上は、きわめて斬新で挑戦的なのかもしれないが、楽器奏者と、時々ステップや身につけた楽器の音を鳴らす踊り手が混じってアンサンブルになっている世界中にごく普遍的に見られる音楽と踊りの自然な形態を思い起こさせる音楽となっていた。
フラメンコでカスタネットの奏法が踊りと切り離せないように、また、モリス・ダンスなどヨーロッパの古い踊りと音楽が切り離せないのを思い出させる。
鈴を付けて踊るとか、ある動作の時にかけ声をかけるというようなことは民族的な舞踊ではよくあることだ。
(余談だが、ホルストにイギリス・フォークダンス協会委嘱の合唱バレエ曲がある。)

 講演前半で、ニコラ・モンドン氏曰く、ペソンは素材の発展などは好まないかのように話していたように思うが、最新作のCassationについては「長い時間をかけて発展」というような話があった。近年の作品でペソンは発展が嫌いではなくなってきたというわけであろうか?
 
 いろいろ書いたが、ペソンの音楽は非常に音も音の身振りも自然で美しく抒情的である。
クラシック音楽的な上品さと端正さを持っている。素材は古い音楽で調性的な要素を忌避しないで、特殊奏法など別の次元で異化を行い、調性的な素材をデフォルメで調性を逸脱させるという典型的な現代音楽風には陥らない。(シュニトケなどに典型があるような調性的なものが次第に調子外れにデフォルメされるような手法は取らない。)
特別な緊張や刺激に聴衆に追い込むような音楽でもない。
ただし、過去の西洋音楽への追憶を、個人的な心のフィルターで美しく表現するという面では、オリジナルな新しいメッセージを、現代の社会の中での新たな価値観や立場、文化を語るという存在ではないと思う。
ヨーロッパのクラシック音楽の美しい残留物である。