和声、個性

古典派の旋律は和声に束縛されているというか和声の形がある一定範囲の中で構想された旋律だといえる。音楽史の中では悪い言い方をすれば和声の形にはまった旋律しか存在しない時代。

しかし、
「和声の形にはまった」というのは様式の問題であって、これが音楽として面白くないという意味ではない。ということはニュアンス補足しておきましょう。
和声が安定していて、かなりおおきな単位で和声が組み立てられているので、かえって一つの和音の中で旋律が非和声音も含んで俊敏に駆け回る速度を獲得できたというのが古典派の面白いところ。
この狭い範囲で、徹底的に磨きをかけたて可能性を開拓しまくったから質が高まった。
それを、同工異曲を避けて1曲ごと新しい和声と旋律の様式を作ろうとするとなかなか成熟した音楽にたどり着かない。個性も成熟しきらない。


ブルックナーが、毎回、交響曲の書法を変えることに執心していたら、ああいうところへは行けなかっただろう。


ということで、私も、自分の癖のある個人的な和声スタイルのまま、毎度、繰り返し作っています。


印象に残るすぐれた作曲家の音楽は、とても強いキャラクターと個人様式が一貫していていて、作曲家像として鮮明な性格がある。
ちょうど、ショパンシューベルトシベリウスベートーヴェンヒンデミットプロコフィエフの音楽のように、「ああショパンだ」「おおいつものヒンデミットだ」というように、まさにその作曲家名が音楽の性格を示す形容詞になる個性をもつということは、他の音楽では代用のきかないこの世で唯一のかけがえない音楽としての存在感の重要な部分だと思う。その作曲家の名前そのものでしか形容できない部分のある音楽。