ネクスト・マッシュルームのカーゲル

ネクスト・マッシュルームプロモーションのコンサートに行ってきました。
(大阪 ザ・フェニックスホール)
今日はカーゲル。
夜は用事があったので第1部の「エキゾチカ」のみ聴くことができました。

エキゾチカは、
演奏者が器用に民族楽器を鳴らすので、勝手に予想していたところの、クラシックの演奏家が、慣れない民族楽器に悪戦苦闘する可笑しさは発生せず。
演奏者がそもそも非西洋人の音楽性を隠し持っていて民族音楽も多少知っている日本人なので、普段は西洋音楽の教養に隠されている民族音楽的な音楽性が呼び戻されてが先祖帰りしたようなようであった。
演奏者本人の意識しなかった忘れられていた非西洋的な音楽性が召喚されて本人も意識しなかったルーツが露わになっていくようであった。

カーゲルは移民や民族の移動や接触で、現代人の中にも潜む、遠くの音楽の記憶の残存を掘り起こす仕掛けを考えたのではないかと思った。
演奏者がドイツ人でクラシック音楽の専門のプロ演奏家であれば、民族楽器によって、音楽家としての技巧が通用しない環境に置かれ、はるかに遠い音楽的な伝搬の残骸か、あるいは演奏技術の空白によって生き物としての人間のプリミティブな発音行為が露骨に引き出されるのかもしれない。
しかし、今日の演奏者は、皆、もともと非西洋人であり、日本の伝統音楽になんらか接したこともあり、世界中の様々な民族音楽なども録音や実演で接する機会のある生活をしてきている。その民族楽器が、もともとどのような演奏法で鳴らす楽器であり、現地でどんな音楽を奏でていたのかというイメージも持っている。

ゆえに、今日の演奏で、出てきた音楽は、非西洋人が非西洋の音楽を奏でているというような非常に伝統音楽的な表現になっていたようだ。

また、カーゲルの指定した若干ラテン的でもあり世界の民族音楽の雑種のようなリズムと旋律線は、演奏者に音楽的に理解されて、某所の伝統的民族音楽のように音楽らしく解釈されていたように思われる。

辺見さんが胡弓が上手すぎとかはカーゲルの想定外だろう。ちゃんと某所に実在する非西洋の民族音楽のように様になって音楽的な表現になる。
リズムや歌がちゃんとある音楽になる。

自分の中のエキゾチックなものを引き出せとのカーゲルの意図。
現代の日本人でも、実は、非クラシック音楽的な、音楽性を隠し持っていて、日本やアジアの伝統音楽の感覚、その中に混じり込んでいる時代も距離も離れた場所の音楽の遠い記憶、実は沢山聴いているラテン音楽やブラック・ミュージックや民族音楽の記憶など、様々な「非クラシック音楽」的なものを、奥底にもっているのだ。
日本の場合は、アジアや太平洋の様々な音楽が流れ込んだ伝統音楽の感覚が残っているところへ、ジャズやポピュラーやラテン音楽流入し、クラシック音楽の教育を受けたという雑種化が日本にいながらにして発生しているので、民族楽器により、その雑種性が露わになる。
カーゲルの場合は、西洋人のルーツとして、はるか中世の民族大移動や移民などヨーロッパ人の移動の歴史、その生きてきた歴史の中での様々な場所と時代の音楽の記憶が個人にも蓄積されていることを意識したのだろうか。