エグベルト・ジスモンチを聴いてきました

7月4日(金)大阪 ザ・フェニックスホールで、エグベルト・ジスモンチを聴いてきました。
前半は、ギター(多弦)、後半はピアノ。
ソロですが、信じられないほど音楽は極めて立体的で多彩。
多弦ギターから、ハーモニックス等駆使して、実に多様なアンサンブルが一人で生み出される。リズムは新奇なことはしていないが極めて精緻で生き生きとしていて新鮮さに充ちている。
ギターは多彩な奏法が駆使され、驚嘆の連続であるが、生み出される音色は、伝統的な音楽の文脈に置かれても美しいものとして場所を得るもので、奇妙な音、楽器を異化するものとはならない。あくまでギターとしての楽器の特徴・性格の拡大となっている。

1曲1曲は、かなり長く、複雑にして自然。
後半はピアノソロは、様々なものが渾然一体と美しく雑種化している。
知的で前衛的な身振りで斬新さをアピールするのではなく、自由な身振りのモダンな音もMPBやジャズの伝統的なスタイルも、許容範囲に入れて連続した音楽の流れの中にある。多様ではあっても、多様式の現代音楽に見られるような異質な文化がコラージュされる断絶感・衝突と違和感の緊張ではなく、幸福な雑種の生き物として音楽が成り立つ。

ジスモンチの音楽は、新しい音、多様さ豊穣さへの探求に満ちているが、誰か先人が使った特殊奏法を並べて勉強の勤勉さと情報吸収力を競い、あるいは、前例のない特殊奏法を使用して、耳慣れない音響を作り、こんな聴いたことのない独創的音響を合成しました凄いでしょうと、技術と個人的発明とを誇示するような未聴感開発競走とは別世界である。
意識的に色々な出自の音楽素材を組み合わせ衝突させて緊張や奇妙な状況を表現するような現代音楽の批評的な組立てではなく、自身の音楽の出自そのものを雑種としている。

雑種的でありながら、全体を通して、おそらくはジスモンチの受けた音楽教育と環境によるのであろうか、ある種の、上品さ、音色やハーモニーや構成の行儀の良い育ちの良さというものが感じされ、きわめて自由で開放感があるにも関わらず、「古典的節度」と「良い趣味」が感じられる。全ては調和している。

混濁した音、音楽的な混乱状況は、ない。
また、生々しい政治性や批判なども感じさせない。
「和音連結は何をしても良い」と極めて自由を強調しながら、それでも、ある種の、新古典的な行儀の良さ、クラシックの演奏会の枠組みの安心感があるパーシケッティの「20世紀の和声」での言葉を思い出す。
例えば、コープランドチャベスなどの音楽の良識あるバランス感覚と、レブエルタスやアイヴスの音楽の節度のない無茶さと、どちらに近いかと問われると、ジスモンチは、自由に飛翔しているにも関わらず前者に近いように私には感じられる。
また、シコ・ブアルキのような政治的・社会発言的な危機感、破滅感をはらんだ音楽ということでもない。

育ちの良い、幸福な雑種が自在に嬉しそうに飛び回る、心地良い音楽世界、
様々な出自の音楽性が、共存繁栄する夢の理想郷のような音楽世界。
どっぷりと、ただただ聴く喜びに浸ったコンサートであった。

ちょうど、舞台の右側すぐに設けられた席の2列目だったので、ジスモンチがピアノを弾くとき、真正面から見る位置となった。

終演時、隣席で熱烈に拍手した妻は、ジスモンチと目が合い、ほほえみかけてくれたと、大変、喜んでいた。