必要なあたらしい音楽

過去に自分に似た作曲家がいないということは、特定の作曲家に似ているのではなくて、あまりにも沢山の音楽の影響がごっちゃになって雑種になっているということ。
特定の少数の師にだけ心酔すると、その人に似る。
昔の音楽史は師弟関係で系譜をたどると作風の系譜そのままというくらいはっきりしている。
しかし、今は、そういう学び方をする時代ではなくなった。

私の場合は、ベースにイギリス近代音楽やストラヴィンスキーやミヨーやヒンデミットあたりの新古典的なスタイルがあるけども、アジアの音楽やラテン音楽やアフリカの音楽も混ざりながら、一方で、中世の音楽からバードやモンテヴェルディからヴィラ=ロボスやリゲティライヒやハリソンやベリオまで、西洋クラシック音楽全般の影響もあり、しかもシューマンブラームスが好きで、日本の田舎の山の中をたっぷり歩いて古い日本の山村の空気もたっぷり吸っている。

西洋のクラシック音楽
ヨーロッパの19世紀の上流社会の生活感情とキリスト教ユダヤ教の宗教的感情と、ヨーロッパの自然感と風土の音楽。
私とは住む精神世界が違う。
キリスト教とか西洋の一神教はいきづまり。
キリスト教の宗教音楽は、音楽としては美しいかもしれないが、やはり余所のいきづまった宗教文化の遺産を代用して聴いている気分。

「うみ山のあいだ」「木にかえる」・・・
ヨーロッパのキリスト教音楽ではなく、もっと深く、自然と人間を、いきづまった一神教のバイアスを取り除いてつなげる音楽を目指している。

キリスト教徒ではない人の為に、
キリスト教の宗教音楽に代わるくらいの音楽が欲しい。