レクチャーの準備中

7月29日のマザーアースでのレクチャーに向けて準備中。
ピアノ協奏曲を書き上げて一段落したところで、よくある大作完成直後の空白の充電期間にあるところ。
あらためて自分の作曲の歩みをふりかえる。

1965年生まれ
1983年 管弦楽チェレスタのための"Autumn Crocus"(犬サフラン)作品1 
国学芸科学コンクール高校生の部銀賞。未初演。(18歳 高校生)
1984年8月 ピアノのための3つの小品 作品3 仁川教会で演奏(19歳)
1986年4月19日 K.S.K.ホール(京都)京フィル第4回創作コンサート(20歳) 
ピアノの為の3つの小品
1987年 ホルン6重奏の為の「単純な場所第1番」関学オーケストラメンバーが学内演奏(22歳)
1988年 関西学院大学文学部美学科卒) 論文は、ホルスト
(就職)
1990年 TVCMの音楽(25歳)
1992年 広島FMの音楽(ガムラン)  (27歳)
1992年 金管5重奏 広島交響楽団メンバーが演奏 中国電力 ロビーコンサート
(1996年 結婚)
コンクール落選続く 作品公開演奏機会 皆無続く 楽譜送りまくり作戦
1999年8月 ウエブサイト「山の作曲家」開設(34歳)
1999年 (34歳)
  青と緑の稜線 作品38(本選演奏 斉藤デュオ) 国際ピアノデュオコンクール入選 
    初のコンクール入選
2001年 
 ・劇音楽「島」 劇団神戸自由劇場 アートビレッジセンター  
 ・「3つの木の組曲」(連弾)初演 ピアノ:佐伯慶子、守田和子 国立市白十字サロン
2002年 (36歳)
  ・音楽の祭日(シンフォニーホール)での「3つの木の組曲」第1曲再演
  ・リコーダーJP サロンコンサート リコーダー作品
  ・オーボエ3重奏 (王子ホール
  ・MU楽団 6人の作曲家の現在
   「白い岩山への行進第2番」「旅について」初演
  ・連弾の為の組曲「島」 国際ピアノデュオコンクール入選
  ・第9回21世紀日本歌曲の潮流 「森の声 作品46」(江森國友 詩)
    実質上、東京での公開演奏会での作品デビュー 最初の声楽曲発表 
2003年 
  ・第11回21世紀日本歌曲の潮流 「うみ山のあいだ」 作品73 初演
2004年 
  ・MU楽団 室内楽の現在 「上海の猫」初演 「旅について」再演
  ・クレオールで個展 歌曲とピアノ連弾 
  ・カペラ・ブレメンシス オーボエ3重奏の為の「島と山の小品」初演
  ・MU楽団 日本歌曲vol.1 歌曲集「木にかえる」初演
2005年 (39歳)
  ・JFCアンデパンダン 連弾の為の組曲「島」再演 (中井デュオ)
      JFCへ初登場    
  ・クレオールで2回目の個展 「ヴィオラとチェロの為の2重奏曲集」初演
  ・ペテトク演奏会出品 「秩父古生層の旅」初演 箏:西陽子 ヴィオラ:甲斐史子
      現代音楽関係グループの演奏会への初登場
2006年 
  ・アジアの伝統・現代 「秩父古生層の旅」再演
      JFCでアンデパンダン以外への初登場  (40歳)
2006年12月19日 「ピアノ協奏曲」初演予定 初のオーケストラ曲(41歳) 

あらためて振り返ると、学生の頃に身近なところで音にしてもらったのが少しあって以降、広島在住時代1992年に仕事上のコネクションなどで作品を強引に音にする機会を作ったことがわずかにある以外、えんえんと作品演奏機会皆無の暗黒時代が続く。
全てのコンクールは第一次譜面審査も通過せず、楽譜を演奏家に送ったりしても返信ももらえず、作曲関係の知り合いなどもほぼ皆無、演奏会に出品するというような現代音楽の作品発表のシステムにも参加できるつながり無しという時期。
吉松隆氏が語るコンクール落ちまくり時期よりもさらに格段に深刻な状態。
1998年頃、楽譜数百部を演奏家にランダムに送りまくるという作戦をやってみたが、これは2001年の「3つの木の組曲」初演などにつながっている。
1999年の「山の作曲家」のウエブサイト開設と国際ピアノデュオコンクールで入選。
これで状況が次第に打開されていく。
入選でひとまず一種学歴的な品質保証書が付いたのか、演奏家にコンタクトを取ると「返事」が来るようになった。・・・おいおい、経歴で対応変わるのかよ。楽譜の内容見て反応が違うならわかるがという気分。以前は返信率約1%。
これ以前はコンクール応募等しても予選落選通知の封筒がぽつんとくるだけだったが、室内楽作曲コンクールに応募したら国際芸術連盟から入会案内が来た。
「山の作曲家」のウエブサイトの効果はタイミング良くこれらに重なっていたこともあって非常に大きかった。
リコーダーJP、MU楽団、カペラ・ブレメンシスなど演奏関係、作曲家諸氏、演奏会に聴きに来て下さる方々との出会いも、実はインターネット上でのコンタクトからはじまっているものがかなり大きな部分を占めている。それが2002年に具体的な活動に反映されて状況が大きく変化している。
実質的に作曲家としてまともに活動しはじめたのはこの2002年。
わずか4年前のことだ。