マゼール指揮トスカニーニ・フィル

ロリン・マゼール指揮のトスカニーニ・フィルを聴いてきた。
会場は大阪フェスティバルホール

最近は、大阪フィルの定期演奏会などもザ・シンフォニーホールに移ったので、フェスティバルホールは久しぶりだ。
シンフォニーホールの滑らかな残響に包まれる空間と異なり、フェスティバルホールは大編成であっても前方のステージから来る音を直接聴いている感がすること、音が妙に分離がよく、それがいささか安手の建材にぱんぱんと跳ね返ってくるような、ちょうど講演や演劇用のホールで舞台の板の乾いた材質を感じされるようなところがあるので、まず、久しぶりに聴くフェスティバルホールの音響特性に印象が左右される部分は多かったと思う。
フェスティバルホールで近年開催される演奏会は、収容力の大きい会場で充分な動員力をもった有名ブランド演奏者で、なおかつ大手マネジメントと関係新聞社や協賛企業も、保守的な多数派クラシックファン、しかも、「フェスティバルホールに通う」という華やかさをイメージとして維持している世代ということになるので、私が普段聴きに行く演奏会とは客層が少々異なる。
ヴィーン・フィルやベルリン・フィルシカゴ交響楽団あたりを巨匠指揮者と巨匠ソリストでスタンダードな名曲で聴きにいくことを行事としていて、全体的に「金持ちで、ヨーロッパ風上流社会指向」をもっている客層。子供も「おぼっちゃま」「おじょうちゃま」服装をした躾の良い子という風情。チラシの宣伝文句も往年の巨匠の名前をちりばめたもの。
隣席の親子の会話も、「こないだヴィーンに行ったときも、こんなに大きなオーケストラ聴いたね・・」という次第でございました。
なお前日はヴィーン・フィルが来ていたようですね。
ちなみに、私は、オーストリアもドイツも行ったことがまだない。作品演奏で呼んでもらえるまで行く予定なし。山の作曲家の作品を演奏していない都市など時代に遅れていて「音楽の都」とは言えない(はっはっは)。
私のパスポートにあるスタンプは、パプア=ニューギニア、イラン、タンザニアケニア、インド、中国、マレーシア。

さてすっかり脱線した。
オーケストラは非常に弦の人数も多く、フェスティバルホールなのだが、重心の低めの濃厚な音が鳴る。
シューベルトの「未完成」をこんなに大編成で聴くと、後期ロマン派のように仰々しいロマンチックな音楽になる。大オーケストラで重厚、巨匠的な聴衆を引きつける大きな身振りの演奏。
なのだが、マゼールの指揮は、グロテスクなほど分析的で曲の細部の仕掛けを明確に開陳してみせて強調するところがあり「楽譜をみるような」タイプの演奏スタイルも兼ねていて独特だ。
金管の和音など、テューバトロンボーンなど低音のラインと和音の配置をかっちり強調する。ときにチューバ協奏曲のような気がするほどであった。
歌う部分はおもいっきり古い時代のオペラのように歌わせる一方で、普段他の演奏では目だたない中声部や低音分パートの細かくメカニカルな音型などが異様に意識にあがってくる。
個々の楽員のあるしゅ武骨にかっちりと音型を鳴らせる特徴なのかとも思ったが、そのような箇所が多いので、これはマゼールの意図なのだろうか。
マイスタージンガー前奏曲」の中間部で弦とフルートの組み合わせが「トリスタン」を連想させる音楽の作りになっていること、ドビュッシーの「牧神」がやはり19世紀の音楽である部分が多いこと・・個々の楽曲が細部に持っている「混ざり物」としての由来を奇妙なほどあぶり出して、こういう部分がある曲だったのだと気づかせられる演奏であった。
オーケストラは高水準で、ソロも安心して歌ってくれるが、特別にはっとさせられるほど印象に残った楽員はいなかった。揃っているが、各セクションが何故か独立してばらばら感があるのはマゼールの特徴なのかオーケストラのせいなのか・・・
豪華でロマンチックな音に聴衆は満足していて、今時珍しい「予定調和のアンコール」が2曲されたのも、金持ちセレブとのパーティーが似合う北イタリアでの巨匠指揮者の祝祭的振る舞いの引っ越し再現としてサービス良である。
そうでありながら、奇妙に分析的で冷静な指揮者マゼールの眼光を感じて、私は、聴いていて奇妙に冷めた気分で音楽を眺めていた。