ホリガー作曲の室内楽 サントリーホール2015年8月22日

ホリガーの饒舌かつ冗長性の高い室内楽をたっぷり聴き、ご本人の長いアフターコンサート話を聴いてから夜遅く、新幹線で帰宅。短くも濃厚な東京訪問であった。
ホリガーは、アフタートークで、すべての音に自己の感情を結び付け、自己が感情を伝える言葉をのせたワーグナーを最悪だと言っていた。
大戦前の濃厚甘美で英雄的個人感情表現にあふれた後期ロマン派音楽が、国家民族の鼓舞、扇動に利用されたことへの反動が、戦後の前衛のバックグラウンドにあるという話は、何度か聞いたことのある話であり、時代背景の理解としては、納得しやすいストーリーである。
しかし、今まで、サントリーのサマーフェスティバルに登場した作曲家の中では、ご本人が最悪と言ったワーグナーにもっとも近い音楽であった。
ワーグナー同様、テキストへの個人的思い入れが強烈であり、最後には、とうとう、作品の演奏終了後に、作曲家自身がテキストを朗読したので、ベルリオーズ幻想交響曲の後で、作曲家本人がレリオを語るようであった。
音楽は作品全体で全パートが饒舌に語りつくそうと重なりあいうごいていくので、レーガーの複音楽のような情報量の多さに加え攻撃的なまでに大きな身振りで動きまくり、さらにプレイヤーとして終始どの音にもエネルギーを吹き込もうというホリガーのエネルギーが各パートの奏者にも要求されている。
しかしながら、延々と続くクライマックスと各パートのどの部分もめいっぱい主張しあうので、音楽はエネルギーレベルの高いところで飽和してだんだん定常的になってくる。この定常的な飽和と冗長は心地よく長時間続きワーグナー的であるが、ワーグナーが大部分は心地よいハーモニーのおしてはかえす波で聴衆を包み込むのに対し、ホリガーはオーボエという音の始まりと終わりが明確でアタックの明確な楽器の性格で、常に耳をつついて注意を向けさせ続ける。
この絶え間なく動き続ける忙しさは、バッハやゼレンカ室内楽に匹敵し、ホリガーがバロック音楽の演奏者でもあることを思い起こさせる。
ヴィオラソロ作品での絶え間ない動きは、あたかも、一つのヴィオラワーグナーの序曲の波打つ弦楽のオーケストレーションに対抗しようとするような欲求が感じられた。
アフタートークで、ホリガー氏の切れ目なく止まらなくなる話は、終止形を拒否していて、話題が切れ目になるかと思った瞬間に、接続詞がトリスタン和音のように繰り出されて大変であった。
この毎年夏のサントリーホールのサマーフェスティバルは、現代音楽の主流として認知され、財団が安心して指名できる現代音楽界の中でお墨付きの日本の作曲家達が、現代音楽ご本家のお世話になった巨匠をお迎えして感謝を伝えるセレモニーとして機能していて、さらに、その巨匠が、日本の巨匠である武満への賛辞と感謝を口にして日本の現代音楽関係者のプライドをくすぐるというイベントにもなっている。
お世話になった巨匠への賛辞と感謝を示し、私も本場の現代音楽の価値を理解し感動する知性と感性をもったすぐれた現代音楽界の一員ということを表明するのが場にふさわしいというところではあるが、これが率直な感想である。