音楽的豊穣さ

最近、聴いている音楽。
ヴィクトル・ハラ、エグベルト・ジスモンチユパンキバーデン・パウエルメルセデス・ソーサの歌うアリエル・ラミレス、カエターノ・ヴェローソ・・・


19世紀までのクラシック音楽の旋律やリズム、20世紀の例えばプロコフィエフバルトークストラヴィンスキーの書くような旋律やリズムのスタイルとは別のもの。
調性的な音楽であっても、こうしたものとは別の何か新しい広がり、表現の広がりをもった旋律、リズム、音色感、記号性、豊穣さ、自在さ・・・
19世紀から20世紀初頭にヨーロッパのクラシック音楽シェーンベルク理屈的には使いすぎて消耗しつくしたはずの全音階的な音楽が、クラシック音楽〜現代音楽の世界の外側で、20世紀には世界で非常な広がりを見せた。


現代音楽主流がシェーンベルク以降、100年にわたり忌避してきた全音階的なメロディや、規則的なリズム。現在は、忌避の意義が薄らぎ、現代音楽の作曲においても堂々と使うこと人が増えてきた。私も使う。


しかし、ヨーロッパの現代音楽のまさにクラシック的な環境で育ったとみられる作曲家が調性的なものを導入する時の、卑屈に屈折した後期ロマン派の引用のようなもの、あるいは、原博や別宮貞雄のように、過去のクラシック音楽の先人の音楽への憧れにひらきなおったような後ろ向きな閉塞感、あるいポピュラー音楽やロックのスタイルの平凡な様式模倣を現代音楽的不協和音で質の低さをごまかしたようなもの。こうしたものにはならないようにしたい。



様式模倣はやめておこう。
20世紀の現代音楽の技法的、素材的な自由さと、その外側の多様な音楽の表現の豊かさが、うまく溶け合わないものだろうかと考える。