武生国際作曲ワークショップ「新しい地平」Ⅲ、Ⅳ

今日は日帰りで、武生国際音楽祭の国際作曲ワークショップ「新しい地平コンサート」ⅢとⅣを聴いてきました。
会場は作曲家諸氏でいっぱいですが、私のことを知る人はほとんどいませんし、人的関係もなく気楽にこっそり偵察してきたような次第。



非常に高度で洗練されて勤勉で、関心の方向を共有する作曲家のコミュニティに足を踏み入れた感はある。10人を越える作曲家の作品を聴くと、共通の時代様式と技法の開拓の方向性、発想と聴取を感じることができ状況の理解と刺激となる。



おおまかに3つの関心のベクトルを聴くことができた。



・リズムの分割の探求
かって音価を持続時間の数列などで扱った時代、出現する音価同士の比率は比較的単純な整数比になりがちであった。これは、複雑に重ね合わせるほど、全体としては均質な一定のパルスが目盛りのように感じられてしまうという結果を招いた。
これを避けるため、様々な連符を組み合わせ、アンサンブルさせることにより、単純な整数比で割り切れないリズムを作り出し、各音の出現のタイミングを予期しにくい常に新鮮なものに感じさせようとする傾向が見られた。
1970年代以降のリゲティや、あるいはナンカロウのリズムの探求を引き継ぐものだろう。ただし、この武生では、ミニマル的な位相変化によるリズムの変化への関心は薄いように思われる。
連符によるリズムの分割は、現実の合奏を想定した実作では、ある程度、連符の分母となるユニットの枠組みが縦に揃っていることになる。大きく見ると明確なリズムの枠組みが存在し、その内側の分割の複雑さを探求しているといった結果になる。
(作曲家によっては、この枠組みが、一つの音の生起から減衰までの内部テクスチャーを詳細に書き尽くすという形で意識されている)
この為、点描的であったりテンポの揺れる音楽よりも、テンポの安定した規則的な時間の枠組みをもった音楽が多い傾向になるように思われた。



・アタックの変化の探求
実際の音楽ではリズムを楽譜上の音価だけでは評価できない。
各音のアタックの差違が、譜面上の音価のバラエティ以上に、リズムの多様性を生む。
様々な奏法による音の立ち上がりの違いにより、リズムをより変化に富んだものにしようとする。
これはラッヘンマンの音楽を思い起こさせる。



倍音の強調
倍音を強調して聴かせることにより音色の変化を多彩なものにする。
ハーモニクスへの偏愛は20世紀音楽から続くものではあり、また倍音構造を意識した音の重ね合わせは、スペクトル楽派や黛など以来、一般的なものであるが、近年の作品での使われ方は次第に変化しているように思われる。
かっては、倍音を意識して作り出した音響をある程度長く持続して聴かせることにより、斬新な音色をアピールしようとするものが多かった。
しかし、近年の作品では、短い音価、鋭いアタックなどで倍音を強調して変化を生み出すことにより、前項のアタックの変化の探求と重なってきているものが多いように思われる。
すでに、特殊奏法や楽器の重ね合わせにより生み出される音色のバラエティが一般的なものになった段階で、これらをいかに組み合わせてアンサンブルさせるかの探求へ向かうのは当然だろう。



さらに、今日、聴いた音楽に共通する特徴。



・生々しい多様式や、文化・伝統の記号の意味を衝突させるなど社会性は避ける傾向。
 一部の作曲家に日本、東洋の伝統音楽の音の身振りなどを明確に留めた部分がある作品は見られたものの、それらの音の文化、社会的な意味・記号性を使って何かメッセージを具体的に伝えようとしたり、これら特定の文化を背負った要素の衝突の緊張を意図するようなものはなかったように思う。
かって、石井真木がやったような文化的な背景を背負った音のぶつかり合い、あるいは松平頼暁が生々しくパフォーマンス的に、現実社会での記号性をもった音を会場に持ち込んだようなこともなく、あるいはアイヴスのようにクラシック音楽のコンサートホール以外で流れる音楽を生々しく引用するような行儀にの悪さはここにはない。
シュニトケやP.M.デイヴィスやコリリアーノがやるような、音楽の引用で、価値観や文化の衝突の緊張感を生み出そうとするような劇的な意図も感じられない。
最後に取り上げられたハンス・タマラの音楽は、他の作品とはかなり異なる傾向の音楽で、各パートに異なった身振りのキャラクターを付与して対話させるような音楽であったが、例えばジョージ・クラムのような生々しく具体的なキャラクターを登場させるようなことはなく、エリオット・カーターやティペット(3重協奏曲や管弦楽の為の協奏曲)のような抽象的なキャラクターが対話するような行儀の良いソフィスティケートされた音楽の範囲にある。
シアターピースの時代は遠くなった?



・空間音楽や電子音、具体音からの撤退。
演奏者の特別な空間配置、音の方向性などを意図した作品は見あたらなかった。
大阪万博の頃に比べると、緻密な譜面のアコースティックな演奏会用室内楽の世界に収斂しているようだ。その中で、仕上げの緻密さ、書法密度を競い合っている。
また、アンプリファイしたり、楽器以外の発音体を使うもの、電子音の使用もなかった。
ティペットのようなイギリスの長老作曲家でさえ、「ビザンチウム」でシンセサイザーを使い、交響曲でマイクで拾った「人間の息の音」を使い、ヘンツェでも、エレキギターを使ったりしたのだが、今日の全作品、「クラシック音楽の楽器」による編成であったし、奏者が叫び声をあげたりすることも無かった。
もっとも、これは、集まった演奏家を前提とした編成の作品を音にするという現実的な設定に忠実に実施(誰かが抜け駆けでアンプリファイするとか)したという主催者の条件設定によるところではあろうが。



個々の作品について、



岸野未利加の「天への梯子」とペーター・ガーンの「Meinten Sie RED」、とりわけ岸野作品は、先にあげた探求のベクトルが網羅され明確な作曲者のイメージと一体化して非常に成果をあげている音楽。リズムの活力と斬新な音の新鮮さと、明確に時間構成の骨格により大変判りやすく伝達力の強い音楽となっている。



福井とも子の「Schlaglicht」。
この人の音楽の関心の方向は、今日の他の作品とはかなり違ったものであるように思う。
音の身振りの移り変わり、視覚と聴覚が共有する身振り。
非常に激しい打撃的な音、強い音への嗜好が極端にあるにも関わらず、常に身振りの推移が、気品のある洗練と優雅さをもっているところが個性だと思う。
ある動作をして、次の動作に入る。その移り変わりに、暴力的な残酷さと気品と美意識が感じられる。
(今回の作品では、いささか「指詰め注意」的、「処刑的」緊迫感が目立ったが・・・。)



大村久美子の「メビウスの変容」。
この人は、このコミュニティの中で許容される音楽のスタイルをわきまえて、とても充実した表現力をもった音楽を作っている。
しかし、この人の音楽で、とても生命力をもって直接的に作曲者の叙情性が発露される部分は、この武生のセミナーで探求されている部分とはズレを生じているように思う。
ここを離れて作風の転換をしていく作曲家のように思える。

脱線:
タイトルの「メビウス」という語彙は、ちょうど今回の第1日に演奏された望月京の「メビウス・リング」と共通である。現代作品のタイトルには共通した言葉の好みがある。
いかにも現代音楽らしい「プリズム」だとか「波動」「ウェーブ」とか「夜」とかいったタイトルの付け方というものがある。鶴見幸代氏や野村誠氏はそれを避けるのだが、「ぞうさんのちんぽ」までいくと、これまた極端。



徳永崇の音楽
多様なものを短い時間の中に詰め込む密度の高さを意図として語っていたが、実作を聴く限りはかえってミニマル的な絶え間ない変化への指向が見られる。
かなり絞られた素材によって形成可能な、順列組み合わせを重複なしに使いつくそうとする。