連弾「島」へのレコード芸術の批評

レコード芸術2006年2月号の新譜評に私の作品、連弾の為の組曲「島」の抜粋が収録されているCD「21世紀ピアノ音楽の領域」への評が載っている。
このアルバムには6人の作曲家の作品が収録されている。
毎度、国際芸術連盟が出す、このシリーズへの長木誠司氏の批評は酷評である。
「今回も内容としては酷評以外になりようがない出来なのだが」と書き始めている。
佐野光司氏の評も「相変わらずスタイルは古くさい」。
実は、私自身も、このアルバムを聴きとおすのはいささか退屈で辛いことを告白しなければならない。自作以外は、あまりに面白くない。


さて、「自作以外は」と書いた、その自作「島」への批評。


長木誠司氏曰く
「デュオのうち近藤作品は新古典時代のストラヴィンスキーの焼き直し風で、連弾の手法がいかにもあか抜けないし」

ストラヴィンスキー新古典主義時代?
ストラヴィンスキーに、こんな風な曲、あったっけ。
連打とオスティナートが、ストラヴィンスキーに聞こえる?全音階的でリズムが明晰なものはストラヴィンスキーに聞こえちゃうのね。


1950年頃の日本、瀬戸内の昔からかわらない伝統的な風景と、原爆の残す不安と脅威。
意外と、戦争が行われた時代と場所の風土や社会背景への想像力が欠如されているようで。
原爆はヨーロッパのインテリの上に落とされたのではなくて、日本の地方都市に落とされ、美しい「古き良き日本」に住む人達が、人類で初めての核の恐怖を経験させられたんですよ。長木さん、20世紀の戦争の歴史は得意分野だったはずなのに。残念ですね。

このアルバムの中で、長木氏の評価は、
「強いていえば、金沢(淑子)作品のみ、それなりの「現代曲」になっていて、響きに耳を傾けようという仕草が見られるが、それだけの話」

たしかに、私の聴いたところ、このアルバムの中で、所謂20世紀後半の「現代音楽」風の「現代曲」は金沢氏の作品のみで、これだけが現代音楽の作曲コンクールで予選を通過しそうだ。
「それなりの『現代曲』になっている。」というセリフに、長木氏の、まず最初に「現代曲らしい」こと、という第1段階フィルタがあるという判断構造基準が透けて見える。

いっそ、あちこちで執筆機会の多い長木氏が「反近藤派」として酷評をあちこちで書きまくってくれたら、私の知名度もあがるのだが、そこまでもしないで、的はずれにストラヴィンスキー風って言うだけでは、私にとっては「役立たず」な評論ですね。


さて、佐野光司氏の評は、
「近藤の『島』は取り立てて特徴のある音楽というわけではないが、堅実な音楽作りで聴かせる。スタイルが新しいものでもなく、新たな問題意識も感じられないのだが、音楽そのものとして聴くに耐える音楽となっている。近藤の4曲は聴いていて退屈せずにいられるということと、楽しく聴けるという点で評価出来る。このような音楽の在り方もあるのだ。ということを示す音楽と言えよう」

佐野様、楽しんで聴いていただけたようで、有り難うございます。
4曲とも、退屈せずに聴いてしまったのですね。
長木氏とともに「スタイルの古臭さ」に否定的見解を示した手前、「現代曲陣営」への裏切りにならない範囲で最大限を賛辞をいただだけて嬉しいです。
そのうち、私の作品群で、「周りには言えないのだが、実は自宅では、ついつい繰り返し聴いてしまう」という状況に追い込んでみせたいものです。