音楽の構成単位 21世紀同時代音楽の潮流 ヴィラ=ロボス、野村誠

音楽において、表現・記号を構成している構成単位として、どの大きさのレベルを意味をもった一つの構成単位としてとくに意識して音楽を作っていくのかということは、音楽を作っている局面それぞれで変わっていくものなので、単純化はできないことなのですが、敢えておおまか言えば2つの方向があるように思います。


1.非常に細かい構成単位に分析して細分化してから、再構成する。

2.言語における単語や熟語のように、ひとかたまりの旋律やリズムなどを、音楽的な意味をもった一つの構成単位(キャラクターと言えるかも)と考え、それを積み重ねたり、それに変化を与えて成長させたりする。

このうち、前者1の傾向は20世紀ヨーロッパの現代音楽、前衛音楽において、非常に目立ち、最も極端な例は、音高、音価、ダイナミックス、音色のパラメーターにまで分解するセリー音楽の思考。さらに、音響そのものまで分析再構成するスペクトル楽派かと思います。
この分析的再構成の傾向は、J・S・バッハの対位法的作品から、古典派のソナタ形式での、主題展開(人気のあるモーツアルトなどはオペラ作曲家でもあるので意外と歌うひとかたまりのメロディがあるが、古典派の職人的中小作曲家の交響曲など、細かいモチーフの組立てでできているのが多い)、ベートーヴェンの精緻な主題展開を源流に、一旦はロマン派で潜伏し、シェーンベルクウェーベルンからブーレーズさらにラッヘンマンやグリゼーまでつながっていると思います。
この分析的な思考は、細部に至るまでオリジナルな新しいものを作ろうとすることを徹底する際には、非常に優れた吟味の方法だと思います。


ただ、音を細かいパラメーターに分解し、その最小単位を意識させるために、点描的に配置した場合には、落とし穴があり、聴かれる音楽として失敗した作品は、その罠にはまったものと思います。
言語の単語を分解して、ひとつひとつの音に分解すると、結局、あいうえおの50音になってしまい、たった50種類の素材になってしまう、あるいは、アルファベットあるいは発音記号の一覧表になってしまう。
あ い う え お い え あ お う え い・・・
既存の単語の出現を忌避して、こうやってしまうと、事象の数が多ければ多いほど確率論的に結果が似てくるのは明白。微細に細分された事象が長い演奏時間に多数起こるほど全体の結果が似通ったものになってくるのは数学的には当然の結果。(正規分布に近づく)。
これでは、ネタが尽きるので、大声の「あ」、小声の「あ」、かすれ声の「あ」、猫撫で声の「あ」、長い「あ〜」、短い「あ」というように事象の種類を増やしていこうという対処も考える。
しかし、人間の声の生物の器官の能力としてのバリエーションは、ここまで細分すると意外と小さい。動物としての鳴き声の種類に陥ってしまう。単語や熟語などを素材単位として文学を作ったり、一連の発声の様式(謡曲やラップだとかみたいに)を作りあげるようなことをするなりしないと、文化的な意味の豊穣さには到達しがたい。
セリー音楽の後は、音をグルーピングして一つの性質をもった音響単位として扱う方向へ向かった。ただし、過去の調性音楽などを想起させる旋律やリズムや和音への忌避は現代音楽のコミュニティの中で強く、過去の特定の音楽を想起させない音のグループをどう作るかという方向へ向かった。
さっきの50音の例えでいえば、既存の単語、熟語を想起させないグルーピング。
「いあ あう うあ いあ」「ちょわ ちょわ ちょわわ」とか「うにょぽん ぴょろぽん ぶひょぽんぽん」とかいったグルーピングで結果の多様性を生み出そうという方向。
その後、一部の作曲家は、過去の音楽に使われた単語も混ぜて、コラージュや多様式に進むということになりシアターピースを含め様々なものが生まれてきた。
「ちょわ ちょわ ちょわわ」「戦争!」「ぶひょ〜ひょ〜」「なんまいだなんまいだ」「がちょ〜ん」とかいった案配でしょうか。



さて、後者2の方向
音楽の構成単位を、あまり分解しないで、文化や感情などを示唆する意味のある音楽的記号の組み合わせとして把握する傾向。あるいは、音楽作品というものを、様々な意味をもった音楽的キャラクターが集まってできたものとして考える方向。

ポピュラー音楽では、この傾向がとくに強く、レゲエ、タンゴ、サルサとかいったように、具体的なリズムやコード進行や演奏スタイルなどが、一つの音楽的記号として保持されていて分解されてしまわない。スタンダードなジャズなども、定番のジャズ的なコードや音型があって、
それを材料として組み合わせていく(ジャズミュージシャンの中では、そのコードや音型は、具体的な過去のジャズミュージシャンに結びついていたりもする)。そのうち、異なったジャンルが接触して、双方の音楽的記号が混在しているうちに雑種化して、また新しいジャンルが生まれる。


坂本龍一
例えば坂本龍一の「音楽図鑑」などは、音楽ジャンル固有の性格をもった構成要素を組み立ててみるという操作を知的に意識的に行うという発想である。

アイヴス、柴田南雄
20世紀のクラシック系の近現代音楽でいえば、アイヴスなどは、おそろしく大きな単位で文化の記号としての意味をもった「音楽」を組み合わせて「音楽作品」を作る。教会の賛美歌、ブラスバンドラグタイム、フォスターの歌などが、原型をとどめたままコラージュされる。こういうコラージュ的作品の構成要素は、過去の音楽の1曲まるごとであったりということさえある。柴田南雄もシアターピースで、民謡まるごと作品に入れたりもしている。

ミヨー
ミヨーの場合は、多調技法という用語で、調性から無調への移行の中での亜流みたいに片づけられてきたのだけども、これは、重要な意義をもっていて、各プレイヤーが奏でるメロディとリズムは音楽的意味をもったキャラクターとして音楽的な独立性が成り立っていて、各奏者が奏でる音楽が重なり合ったアンサンブルという思考によるものである。各奏者の奏でる声部は、それぞれ、ブラジルのリズムだったりの性格を持ち、それぞれの調や旋法の性格を持ち、非常に斬新なオリジナルなものだったり、きわめてクラシカルなメロディだったりの独立したキャラクターをもっている。
構成要素である音楽的キャラクターは、あえて、既存の民俗舞曲のリズムを残していたりして具体的な文化的想起をもたせている。多声音楽での各声部の独立性というものが、さらに押し進められて、各声部のメロディが、それぞれ異なった文化、個性、調的な性格をもっているということが企てられている。「たくさんのメロディ」とミヨーが言うわけだ。
ミヨーは後年、スタイルが新古典的で穏健になってしまい、演奏される曲もこの時期のものが多いので実像があまり認識されていないのが残念ですが、1920年代あたりのラディカルな作風のもの、「男とその欲望」などは、各声部が生き生きとそれぞれの主張をしていて、複数の生命がせめぎあっているようなエネルギーに満ちている。

デューク・エリントン
デューク・エリントンが、自分のバンドの各プレーヤーの個性的プレーを考えながら、各パートを書き分けていたという話しも思い出す。
プレイヤー一人一人が、それぞれの音楽とスタイルを持っているということに視点をおいた作曲。

カーゲル
個々の音楽文化を背負った個人であるプレイヤーが奏するキャラクターをもった各パートが、アンサンブルするという発想の極端な例としては、カーゲルの「エキゾチカ」は徹底してる。たとえクラシック音楽の奏者として生活していても個人が隠し持っている隠れた音楽文化、非ヨーロッパ的音楽性が露呈するように仕掛けてあるところが、また、面白い。

メシアン
メシアンは、一時は、前者の分析的方向を主導したのに、「渓谷から星達へ」あたりになると、毎度お馴染みのメシアン風キャラクターをもったユニットを、ガラガラと組み立てるスタイルになるので、一旦、自分独自のキャラクター作りに成功した後は、音楽的な思考は前者1から後者2へ早期に軸を移した人なのかなと思います。
個々の鳴き方をもった鳥というキャラクターが沢山いる世界ということなのでしょうか。

エリオット・カーター
エリオット・カーターは、後者2の構成ユニットとしての多層的な思考で構造的には独自性を出そうとしているのかもしれないが、前者の方向の分析性や音の好み、現代音楽的でない行儀の悪い生々しさを避ける上品さが混じり合っているので、今ひとつ音楽社会的インパクトが足りない作曲家に留まっているように思います。

ヤナーチェクバルトーク
ヤナーチェクのように、各部分の独立性ということではなく、オリジナルな音楽的キャラクターを、個々の生き物のように成長させていくという発想もある。バルトークは民俗音楽の持つ音楽的性格を壊さないように分析・再構成する非常に優れたバランス感覚の人で技法も音感覚も斬新だと思うが、音楽の構成に関する価値観では、前者1の分析・展開というところによった古典音楽的な価値観、統一感、純度への美意識を重視した人だと思います。一方ヤナーチェクは、和声や調性感といった尺度で保守的に見られがちだが、楽曲構成への価値観、思考や、倫理観など音楽観は、独特のものをもっていて、その面からすれば、分析・展開の価値観の強い人達にとってはわかりにくい存在かもしれません。

プロコフィエフ
プロコフィエフが、音楽の各パートを、個々の動物に例える感覚。生きて動いている動物が複数いるような例え。各パートの個性的なメロディやリズムの性格を、いろいろな動物がそれぞれの特徴をもって運動しているように捉える感覚。彼の音楽では、のそのそ動く動物、ちょろちょろ走り回る動物、昆虫のようにバタバタするもの、とかみたいに、いろいろな身振りをもったキャラクターが繰り出すように組み立てられているように思う。交響曲第5番などは特にそのように思わせる。伝統的なクラシック音楽の様式と感覚的な新鮮さの天才的共存は、ここから来ているように思う。

ホルスト
ホルストの「惑星」では、ドビュッシーストラヴィンスキーのような新しい音響ブロックが解体・分解されずに、ユニットとしてモザイク状に組み合わされた上に、ジークなど明確な過去の舞曲リズムをもった全音階的な旋律が、これまたユニットとして乗っかっているし、「木星」の名旋律は、実は、突然、エルガーかパリーあたりのイギリス風の歌が、引用コラージュされているような配置をされている。

ライヒ
ライヒの場合は、周期の違うユニットを組み立てての位相差を重用した初期から、性格の異なった文化的な記号をもった言葉や音を組み立てるスタイルへの変化が目立ちますが、そういえば、ライヒなどアメリカの作曲家にはミヨーに学んだ人がかなりいるはずである。
ミヨーがアメリカの現代音楽にどんな影響を残したのか興味あるところだ。

ジェフスキ
ジェフスキの「不屈の民」は、非常に具体的なメッセージをもった革命歌がテーマとなっているが、これを一つのテーマとして、欧米エリート音楽家的な分析・展開・変奏を行った結果、高度に変奏されればされるほど原曲のもつ強烈なメッセージ、カルチャーが薄れて行儀の良い「立派な」現代音楽になっていくという皮肉な結果に陥っていると思う。
クラシック音楽の変奏曲としてはそれで良いのだが・・・。

ヴィラ=ロボスにおける雑種化
ブラジルのヴィラ=ロボス。
とくに、1920年代のショーロスのシリーズは、ストラヴィンスキーばりの大胆さと、ブラジルのポピュラー音楽(そもそも雑種)であるショーロスのスタイルとか、民俗音楽か何かに由来するようなラテン・パーカッションのアンサンブルと、メロメロに歌う抒情的歌謡性など、音楽を作っているものがいろいろな文化的な背景・意味・記号をぶら下げたまま雑居して溶け合い、新しい雑種の音楽を生み出そうというエネルギーが渦巻いていると思います。
民族的打楽器を使うときも、ヨーロッパの前衛が使うときによくある、そもそものその打楽器がもつ地域文化性を抜き取った音響素材として使うのではなく、ラテン音楽のアンサンブルとしての使い方をしている。

ブエルタ
メキシコのレブエルタスも、メキシコの民俗音楽と20世紀音楽的技法の大胆さが混在して不思議な雑種になっていて面白い。様々な音楽文化の坩堝。音楽、様式の「純度」ではなく、「雑種度」が豊穣さをもたらしている。

野村誠さんの、人それぞれの音楽の出会いとしての音楽
野村誠さん
野村誠さんの「しょうぎ作曲」は、演奏に参加する人の音楽的キャラクターを出会わせることで音楽作品を成立させるという点で、2の考え方を、さらに、人間一人一人が持っている音楽性を独立した音楽のキャラクターそのものとしてそのまま生かした上で、アンサンブルとは人が出会うことであるというところまで徹底したものに思います。
野村さんの使う「あいのて」という言葉は、ある人の動作への、ある人の反応動作というものですが、個人の創作ということを越えて、各パートを、それぞれの人が作るという共同作曲まで踏み込んだものだということをよく示していると思います。


アンサンブルについて
後者2の思考を重視する人は、アンサンブルというものは、個々のプレイヤーのプレイの重なり合いと考える視点が強く、個々の音楽的キャラクターの鮮明な表現を求め、前者1の分析・展開の思考を重視する人は、作曲家が欲しいと思った音響構造物・音のイメージを実現するために、個々の奏者が素材となる音を分担して正確に発音するのが演奏家の仕事だと捉える視点が強くなるると想像します。

音楽の潮流について
ちょうど、今は、20世紀後半の「現代音楽」から21世紀の同時代音楽への変わり目で、非常な転換期だと思います。20世紀後半の前衛音楽も、歴史上の音楽様式として、距離をもって眺める存在になってくるでしょう。価値観の変化にともない、過去の作曲家への評価も変化してくるでしょう。
ブーレーズのレパートリーは20世紀近現代音楽の主流の音楽観、価値観の典型を示しているように思います。ブーレーズが取り上げる作曲家、取り上げない作曲家を並べてみると彼の価値観が浮かび上がってくると思います。ところが、今まで評価していなかったヤナーチェクを、レパートリーに入れはじめたのには驚きました。音楽の流れが変化しつつあり、20世紀現代音楽で一大勢力を築いた時代様式が終わりつつあるのでしょう。


これからの音楽を作ることを考える時、ヴィラ=ロボスにいける雑種化はよく聴いておきたい。斬新でありながら、不思議な懐かしさを聴く人に感じさせる音楽だ。
野村誠氏の音楽は、一人の作曲家の表現としての楽曲という、「作曲」「楽曲」の19〜20世紀的概念を揺るがせて、「複数の人の音楽が出会ったことで新たに音楽が生まれる場」という楽曲概念に踏み込んでいる。


2009年8月22日にヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」全曲演奏会という珍しい企画がありますねので聴きに行く予定にしています。「ブラジル風バッハ」は、ヴィラ=ロボスの後期の少々、保守化してしまった時期の曲なのですが、それでも傑作ぞろいだから聴こうと思います。
そういえば、いずみシンフォニエッタ中南米特集でヴィラ=ロボスなどやる。これも楽しみです。
ということで、ヴィラ=ロボスについて書いてみようかと思い立ったら時代の変わり目の大きな話しになってしまいました。